其の弍:愛憎の果て(笑)
「班長!」
整備班の悲鳴がハンガーで上がる。
だが、その声に構わず素子は駆ける。
その手に、大型の業務用カッターナイフを握りしめて。
「誰か止めてぇ!」
精華の叫びがこだました。
善行はいつもの様に、小隊隊長室で執務を続けていた。
丁度祭が善行に、裁可印を貰いに来ていた。
遠坂は職員室へ行っていて席を外している。
バン!
振り返る祭。
「ん?」
善行は、扉の開く激しい音に、視線だけずらす。
その先に、肩で息をする、殺気だった、素子。
尋常でない表情に、思わず立ち上がった。
「班長…?」
「い、委員長、あれ!」
祭が、腰を抜かして指を指す。
握りしめた、真っ白い手に光る、伸びきったカッター。
「!!」
祭が悲鳴を上げるのと、素子が駆けだしたのがほぼ同時。
咄嗟に善行は祭を突き飛ばして、間に入った。
「…っ!」
鈍い音がした。
善行と素子はその姿勢のまま動かない。
素子の表情は能面の様に凍り付いたまま。
善行の顔と、素子の腕を押さえつけてる手は、蒼白だった。
やがて。
「く…」
善行の額から頬に掛けて、汗が、吹き出す。
じわり、とその制服の下腹辺りが赤く染まり始める。
「あ…!ひ、ひぃ!」
祭がバネ仕掛けのように起きあがり、血相を変えて部屋を飛び出した。
「…や…って、くれましたね…」
善行は絞り出す様に声を出した。
「裏切ったのは、貴方でしょう?」
素子の声には抑揚がない。
「裏切っ、た…つも、りは、あり、ませんけど、ね…」
「貴方になくとも、私には大ありなのよ」
「だから、と言って…事務…官を、刺す、のは、お門、違、い…じゃ、ありま…せんか」
「別に加藤さんを刺すつもりで来たんじゃないわ」
素子の口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「初めから、ターゲットは、貴方一人」
善行も、笑う。
「成、程…私が…必、ず、庇う…と、踏ん、だの…です、ね?」
「貴方は絶対、他人に被害を出さないヒトだから」
ぐ、と双方の手に、力がこもる。
「…ねえ、よく知ってるでしょう、私?貴方の事なら、何でも知ってるのよ…?」
甘えたような、優しい声。
善行の脂汗が、素子の頬にぽたりと落ちて、そのまま伝う。
「流石、ですね…誉め、てあげます、よ…」
「司令!」
「委員長!」
「来るな!」
遠坂とスカウト組が駆け込んでくるのを、善行は一喝して、動きを止めさせた。これ以上素子を刺激したくなかったからだ。
背後に祭の姿を認めて、彼女が呼んできたのだと気付く。
「し、しかし…」
遠坂を一睨みで黙らせて、善行は、自らの腕に力を込めた。
「う…」
素子の顔に衝撃が走る。
「ぐ…ぁ」
ずるり。
ゆっくりと、確実に、その刃物が彼の腹から抜き取られ、それと共に、新たな鮮血が、その半身を濡らし始める。
「…ぁ…!」
素子の身体がわななく。
ぐ、と叩き落とされたカッターナイフと一緒に、ぺたん、とへたり込んだ。
傷を片手で押さえ、俯き気味の善行と、動揺しながら見上げる素子の目が、合う。
「これ、で…気が、済みました、か…?」
眼鏡越しの眼差しが、優しく笑う。
「あ…」
それで気付いた様に反射的にスカウト組が部屋に飛び込み、素子を取り押さえる。
「…っ」
傷口を押さえて、善行が片膝をつく。
「忠孝様!」
「委員長!」
遠坂と祭が駆け込んで、支えた。
「班長…!!」
遅れて駆け込んできた整備組が、凄惨な現場に立ちすくむ。
その時、だった。
『201v1、201v1…』
「出撃命令か…っ!」
遠坂が歯噛みする。
「何もこんな時に!」
「…行きます。各員、出撃、用意」
静かだが、周囲を圧する声が、した。
善行だった。
「委員長…!」
隊員に悲鳴があがる。
血相を変えて、遠坂が叫んだ。
「やめてください!早く手当しないと!」
「…いや、君にはまだ、無理です」
善行は荒い息のまま、笑った。
「もっと酷い状況で、戦った事も、ある…」
「ですが…」
「上官、命令だ。出撃する。」
そこには、有無を言わせぬものがあった。