2.
それは、花岡山へ星を見に行こう、と約束した晩の事だった。
弁当の下ごしらえを終えて、何するでなく窓から見える星空を眺めていた時、呼び鈴が鳴ったのだ。
「はい」
住所を教えてる人間は少ないし、知ってる者はこんな処へ簡単に来られるような場所に居る訳でも無いから、不審に思いながら、覗き窓から窺う。
「え?何?」
そこには所在無げに立って居る、善行の姿があった。
胸騒ぎを感じながら、それでも扉を開ける。
「珍しいわね。よく私の前に顔を出す気になったじゃない」
善行は静かに笑った。
「…相変わらず手厳しいですね」
眼鏡は闇色に沈んでいて、目の表情は、見えない。
「優しい言葉を期待していたのならおあいにくさま」
「それは全て彼限定という訳ですか?」
「ええ、そうよ」
自信たっぷりに肯いてみせる。
善行は溜息を付いてみせた。
「やれやれ。恋する女性は無敵ですね。悪びれないラブオーラに当てられてしまいましたよ。昔の男をこんな気分にさせて、さぞ良い気分でしょう?」
「えーえ、大満足☆」
言いながら、善行の此処へ来た意味を目まぐるしく考える。
一体何をしにきたのだろう、まさかとは思うが誘われたのだろうか、などと間抜けな考えが頭をよぎる。
…間抜けな、考え?
何か大事なものがぽっかり抜けて居るような、そんな、不安。
「それで、昔の男が何の御用?」
善行は笑みを浮かべた。
「…嫌な伝言は私の仕事らしいです」
カン、と周囲の音が消えた。
「何しろ、貴女に嫌われ慣れてますから」
何かを確認する様に、静かな声だけが、響く。
予感が、した。
「本日12時を以って、若宮康光戦士は処理された事を、所持者である貴女に報告します」
処理、という言葉が飲みこめなくて、素子はただ、善行を見つめた。
善行はその注視を別の意味に取ったのか、目を逸らす様に小さく目礼した。
「すみません…」
囁く様に紡がれた言葉に、素子は何の感情もこもらない言葉を返す。
「何故、謝るの?」
「あの時した判断が間違っていたのかもしれない」
「何を、間違ったというの?」
責めるでなく、ただ、淡々と。
「貴女と彼の幸せを思ってした判断が、貴女を層倍の地獄に突き落とす事になったのだとしたら、僕は…」
善行の言葉には、微かに悔悟の色がにじんでいた。
だが、素子にはその声も、まるで他人事に聞こえた。
やがて、ぽつり、と呟く。
「それは、貴方が悔やむ事では、ないわ」
「え?」
「それを悔やむのはね、私なのよ。部外者の、貴方じゃない。そして、貴方が悔やむのは、ただの自己満足でしかないの」
「素子さん…」
「それはね、彼と私にとてつもなく失礼だ、って気が付いてる?」
「…」
「ほら、やっぱり解って無い」
やはり責めるでなく、淡々と。
「…本当は、私が悔やむのも、自己満足でしか、ないんだけどね」
善行は、何も言わず素子を見つめる。
「貴方には、その資格がないのよ」
善行は、静かに苦笑した。
「…同じ様な事を言われましたよ」
「でしょ?」
「はい」
軽く首を振って。
「貴女方の間には、誰も入れないのですね。心底うらやましいですよ」
静かな間が、流れる。
やがて善行は、内ポケットから、封筒を取り出した。
「これを、貴女に」
中に何か、塊が、ある。
封を切ると、ころん、と掌に光るものが落ちた。
これが何かを言われなければ分からない程彼女は馬鹿では無い。
「…これを使えば、データ的に同じものを戻す事は可能です。直前迄の全ての記憶が存在している以上、ほぼ完全に同じ『彼』を複製する事がかないます」
事務的な、でも何処か情の絡んだ声がして、素子は不思議に思った。
「無論、今度は備品にならない様、取り計らいます。その為の書類は全て、既に用意してあります」
思ったから、そのままを口にした。
「…それで私に、どうしろと?」
「貴女の望みを述べて下さい。望むままの選択肢を実施します」
決然とした口調。
眼鏡ごしに、まっすぐとした真摯な視線が素子を見つめる。
昔はそれにときめいたり苛ついたりしたけれど、今は何も感じない。
だって、関係無い、から。
素子は結晶に目を落とした。
「…それは、負い目?」
「誰の?」
「貴方」
「誰への?」
「…それは、貴方が一番よく知ってる事じゃなくて?」
善行は、静かに笑う。
「…さて、どうでしょうね」
素子は結晶から目を上げた。
「…私は、彼の復活を望まないわ」
善行の目を正面から、見据えて。
「それがきっと、彼の望みだから」
決然と、宣言する。
「彼の望まない事は、私の望みではないから」
「…」
善行は黙って素子を見返した。
そのまま、少し、間が開く。
「…わかりました」