2.決められた構図(承前)
善行がののみに倒されたという話は、あっという間に小隊中の噂になった。
手当を終えた萌が教官に、善行が早退した旨を告げた事で、更にうんと尾鰭が付く事になった。
「まさか二十歳過ぎの大の男が、あんな女の子に倒されるとは誰も思わないよねえ」
「あの後ののみを宥めるの、すごく大変だったんだぞ?」
「やっぱ頭だけってのは駄目って事だな。体力体力」
「司令は頭良くなきゃ出来んばい。逆立ちしたってお前にゃ無理ばい」
食堂でそんな話を漏れ聞きながら、精華はそぉっと素子の顔色を伺う。
普段より箸を動かすペースが速い。
(うっわー…機嫌悪そー…)
放課後の状況が予想できて、げんなりした。
このヒトは気取ってるフリをしてるけど、本人が思っている以上に結構感情がストレートに出る。
「何?私の顔に何か付いてる?」
「え、…いえ」
素子の顔がきゅ、と険しくなった。
精華は思わず、肩を竦めた。
「若宮君」
「はいっ!なんでしょうモトコさん☆」
目的は背後の人間だった事に精華は安堵した。
だが、この剣呑な声音には、安心できない何かがある。
「ぜ…上級万翼長の事だけど」
「あ…」
「訓練で東原さんに倒されたって聞いたけど、それ本当?」
「…」
「若宮君?」
素子が怪訝な顔をした。
妙な間が空くな、と精華は思って背後に目を移した。
若宮は、握り拳と全身を震わせて、俯いている。
と、
「自分は、嘆かわしいですッ!!!!」
窓ガラスがビリビリ震える程の大きい声。
食堂内が一気に静かになって、全員彼を伺っている。
見ると若宮は泣いていた。
「ちょ、一寸、若宮君?」
素子が狼狽えて、声を掛けたが、若宮の耳には入っていないらしい。
「今でも自分は信じられません。あんな小さな子に簡単に倒されて、しかも一瞬気まで失って。事もあろうに医務室まで歩けない始末です。手塩に掛けて育てた筈の武官が、あのザマですよ?くぅ、これが泣かずにおられようか!」
「わ…若宮君?」
「確かに鳩尾にでも入れば、八歳の女の子の拳だって決め手になるかも知れん!その点で東原の方は誉めたい!だが、学兵ではない、士官学校出のあの人が、避けも出来ないとは何事だ!そこまで鈍ったのか…っ!」
若宮は男泣きである。
「わざと避けなかったのやも、知れぬぞ?」
さして大きくもないが、はっきりとした声が、通った。
皆の顔が一斉に、声の方に向いた。
「芝村…!」
食堂を出ていこうとしている舞だった。
いつもなら大概速水が一緒なのに、珍しく一人だ。
「わざと避けない…だと?何故だ」
若宮が怪訝そうに問い返す。
「訳など知らぬ。ただ、そんな気がしただけだ」
いつものようにぶっきらぼうに応えて、舞は食堂を出ていった。
「…」
若宮は考え込むような顔つきになり、すっかり大人しくなった。
少しの間が空いて、食堂に元の喧噪が戻る。
「…芝村さん、何であんな事言ったんですかねえ、原先輩」
精華は、軽い気持ちで呟いて、ギョッとした。
素子の表情が、先程に増して、不機嫌そうになっている
(な、何なのこの人ーっ!)
精華はとりあえず、自身の安寧の為に、口を閉じる事にした。
その善行は、外に出ようとした処で、舞とばったり遭遇してしまった。
よりによって、熊本方面軍参謀本部入口で。
先に口を切ったのは、舞の方だった。
「−お前、早退したのではなかったのか?」
「貴女こそ、まだ授業中ではありませんか?」
「私には大事な用がある。二組に居た処で、授業を受ける必要を感じないしな。それよりお前だ。授業にも出られないような状況の筈なのに、何故こんな離れた場所にいる?」
「野暮用です。もののついでという処ですね。これから真っ直ぐ官舎に帰る処ですよ」
「こんな、学校から離れた、病院も無い様な処に立ち寄って『真っ直ぐ』も無いだろう。昼休み、若宮が泣く程嘆いていたぞ?」
善行は苦笑した。
「さぞ情けなかったんでしょうね…私は彼の教え子の一人ですから」
「そうか…−ま、別にお前が何をしていようが興味はない。例えわざと殴られようと、怪我が嘘であろうとな。人には色々と言えぬ事もあろう。それは私も同じだからな」
舞は鼻をひくつかせて、「湿布臭いな」と笑った。
「そりゃあ、冗談で気絶は出来ませんから」
「それは、御苦労な事だな」
善行は表情を改めた。
「…城の周りで不穏な動きがあるようですが?」
思わず、低い、難詰口調になる。
「本部もかなり騒然としています。情報の動きを見る限り、5121(ウチ)の付近が一番、キナ臭い」
「そうか」
舞の返事は素っ気ない。
「…全て、速水君の為、ですか?」
「さてな。そんな事があるとして、我らに何のメリットがある?」
「事態が動きます。状況が変化すれば、貴女方の求めるものが得易くなるのではありませんか?」
舞は肩を竦めた。
「我らが求めるもの?ハン。何の話だ、善行」
「貴女方『芝村』の求めるものなど、私には判りませんよ。だが、これによって、沢山の将兵の生命が失われそうだと感じるだけです」
「そんな事を警戒して早退か?」
「…『そんな事』ですか。−ええ、そう思って頂いて構いませんよ」
「司令でもないのにな」
「それだけのものは貰ってますから」
「なるほど、階級に見合う仕事はしようという訳か。見上げた勤勉さだ」
善行は皮肉っぽく笑った。
「貴女もそんな処だけは芝村ですね。先日戦えなくて叫んでいたのとは、えらい違いだ」
舞の顔に朱が走る。
「な…!」
何かを叫び掛けて、即座にその感情を殺した。
「…懲りたからな」
それだけ呟くと、舞はふいっと向きを変えて、建物に入っていった。
「…」
その毅然とした後ろ姿を、善行はただ、見送った。
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