1.ささやかなのぞみ
「…参りましたね」
尚絅高校グランド前の階段に腰掛けて、善行は苦笑した。
昨日晩、三月末日の、嫌になる程多かった各種辞令を処理した、その一番最後。
『速水 厚志 千翼長を 司令に任ず』
勿論仕事だから決済はしたが、結果的に自分が無職になる道理であった。速水を覚醒させた以上、この行動は予想通りではあったが、自らのその後の状態については、全く失念していたと言って良い。
「やれやれ…」
溜息を付いて、グラウンドを見るともなしに眺める。
大体4月迄、此処に居る気はなかったから、次の職を考えていなかった、というのもある。やるべき事、打つべき布石は全て打った。もうこの場所で自分の出来る事は無いに等しい。後は自ら描いた「シナリオ通り」に中央に帰り、次の戦いを開始する、それだけの筈だった。
だがまだ自分は此処にいる。
一言教官に声を掛けさえすれば、明日にも帰還が叶うのは、赴任の当初からよく判っていた。だのに、未だそれを言い出せずにいる自分が居る。
(未練か…?)
何度自問しても答えは見つからない。ただ、しきりに何かが足りないような気がしてならないのだ。それが未練や想いなら、断ち切る自信がある。今迄だってそうやって此処迄来たのだ。全てと引き替えに、たったひとつの目的を達成する為に。
(この期に及んで、私は一体何を見届けたいのだ?全てを終えたこの土地に、今更何を求めようとしている?)
この数日、頭から離れずにいる疑問をまた、蒸し返したその時だった。
「いいんちょ」
ののみが目の前に立っていた。
この時間、いつもは大概瀬戸口が一緒なのだが、珍しく、一人だ。
「あ、えっと、えーと、今は、いいんちょじゃなくて…なんてよんだらいいですか?」
彼女の笑顔は心が和む。善行は思わず微笑して、ののみを見た。
「好きな様に呼んで良いですよ」
ののみは少し考える風にしたが、閃いた様に、満面の笑顔を向けた。
「っとね、じゃあ、ぜんちゃん、でいいですか?」
善行も笑顔で応える。
「はい、良いですよ。ののみさんは、私に何か御用ですか?」
「うん、じゃなくて、はい。あのね、ぜんちゃん。すきは、すきですか?」
「はい?」
「えっとね、すきはぜんぜんめーじゃないの。とてもたいせつなものなのよ。でもね、すきはめーだから、わからないの。めーなのはめーなのよ」
ののみとの会話は禅問答みたいだ、と善行は内心いつも思う。だが、その出自と、エンパシストのタレント故に、核心を突いてくるから、子供の言葉と疎かには出来ない。
彼女の今の言葉が、自分の現在の悩みに呼応してのものなのは、多分、間違いないだろう。
「あの、ののみさん?」
「ふえ?」
もう少し言葉を貰って、中身を読み解こうとした時だった。
「あら、暇そうね。無職の上級万翼長さん」
今朝から休み時間の度毎言われ続けた言葉が、再び聞こえた。
素子だ。
無職は自動的に二組−つまりテクノオフィサー教室に移動になる。辞令は朝の段階で発動するから、ライン−テクノ間の変動は掲示板を確認するまでもなく、体制が一目で判る仕組みだ。そして、その整備の巣の親玉が、整備班長・原素子。善行とは士官学校と整備学校時分の昔から、曰く因縁のある間柄でもある。
「ふぇ…」
ののみは間の空気を察知したのか、不安そうに素子と善行を見た。
善行は溜息を付いて、彼女を見上げる。
「貴女も暇ですねえ…」
「ぜんちゃん、もとちゃん、けんかはめーです」
ののみが善行の制服の袖を引っ張った。
善行は、にっこりとののみに微笑む。
「喧嘩ではありませんよ。これはただのお遊びですから」
素子の眉がぴく、と動く。
「あそび…?」
「ええ。整備班長もお暇な様ですから、私と遊んでるのですよ」
今度は口元がぴくぴく、と動く。
「あぁら?何をおっしゃるのかしら?」
「だってそうでしょう?隣の席でもあるまいに、休み時間の度毎、わざわざ嫌味を言いにやってくるなんて、余程暇だとしか思えませんよ。確かウチの整備は、そんな余裕などなかったと思いましたが?」
素子の顔が引きつる。
「なっ、何よ!私はねえ、貴方なんかに構ってる暇なんか、ホントは無いんだから!一寸気に掛けてやれば何?その言い草。忙しい事が判ってるのに、無駄に階級が高くてその上何も出来ないような奴の方がよっぽど無駄じゃないの!」
「その通りですよ。我々に職務の遺漏は許されない。今、貴女の居るべき場所はあちらでしょう?」
善行は薄く笑って、校舎の反対側−プレハブの方に見えるハンガーテントの方を示した。
「違いますか?」
「!」
素子の顔が朱に染まる。
パァン!
「ふぇ」
ののみがその音に、身を竦める。
「馬鹿!」
捨て台詞を叫んで、素子はハンガーの方に駆け去った。
「…フゥ。やれやれ」
これで何度目の平手打ちですかね、と、赤くなった左頬を撫でさすりながら、善行は小さく呟く。
「ぜんちゃん、だいじょうぶ?」
ののみが心配そうに、善行の顔を見上げる。
「有り難う、大丈夫ですよ」
「もとちゃんはぜんちゃんのこと、とてもしんぱいしているの。だから、きらいはめーなのよ?」
不安そうな瞳に映った自分の顔を見ながら、善行はののみに優しく笑い掛けた。
「ええ、判っています。だから、ののみさんも安心して下さい」
ののみはしばらく善行を見つめてから、大きく頷く。
「だが、確かに整備班長の言う通りですね…」
しばらくの間にせよ此処にいる以上は、という言葉は胸の内で呟く。無職を何人も置ける程、この小隊に余裕が無い事は、元・司令の自分が一番よく知っていた。
ならば、何か、自分の出来る事をしなければならない。
答えが見つかるまでは。
善行はバミューダパンツの砂を払いながら立ち上がった。
「さしあたって、整備か戦車兵にでも、異動陳情でもしておきますか」
幸い戦車兵資格も整備資格も三月中に取っているし、陳情するには困らないだけの力も持っている。速水が異動した以上、複座に空きが出るのは自明だし、そうなれば過去の経験上、数少ない戦車兵ポストに異動が集中して、体制が混乱するのは目に見えている。
後は誰かの仕事を手伝ってやれば良いだろう。司令異動も今日の事で、幾ら好戦的とは言っても、主戦力の複座型に空席が出来ている以上、さしあたってすぐ戦闘と言う事は無い筈だ。
(…整備に異動すると、誰かがうるさそうですがね)
先程の素子を思って、微笑する。
「ぜんちゃん、どうかしましたか?」
ののみが不思議そうに善行を見上げる。
「はい?」
「んとね、すごく、うれしい?」
「…そうですね。はい」
善行はののみに再び笑顔を向けた。
「じゃあののみさん、色々教えてくれた御礼に、貴女のお手伝いをしましょうか?」
「うん!」
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