その微かな「音」に、足を止めた。
「音」が聞こえた方に身体を向ける。
視線の先には小隊隊長室。
足音をひそめて歩み寄る。
殺そうとして殺し切れていないその「音」は、
次第に小刻みになっていく。
「…っぁ」
確かに、女の喘ぎ、だった。
「行きますよ」
囁く様な、男の声。
どちらの声にも、心当たりが、あった。
その手が、激しく握られて、その拳から、血が滴り落ちる。
許さない。
自分から、彼を奪う者は、何人たりとも、許さない−
1.帰還後
善行が突然、関東に帰還した。
心中何か期するものがあったらしい。
かなりあわただしい帰還で、少しばかり小隊内は混乱したが、司令にはすぐ後釜が収まり、どうにか落ち着いた。
そんな夜、舞はハンガーに佇んで、見るともなく、士魂号を眺めていた。
(カダヤ、ですか…?)
告白し、受け入れてくれた迄はよかったが、その呼び名は、決して許してくれなかった男。
身体迄許したのに、その名で呼ぶ事だけは、頑なに拒否をした。
(意味を、知っているのか? では何故…!)
(その言葉は、もっと大切な方が出来た時に言ってあげて下さい)
寝物語に、理由を何度も問うたが、答えてくれた事はなかった。
(馬鹿な事を言う。私にとってその…大切なのはそなたなのだ!だから…)
その言葉には、微笑で応えて、その続きを言わせなかった。
(私はこうやって、貴女に逢えるだけで充分なのですから)
そう言いながら、そっと抱いてくれた温もりだけが、今の記憶だ。
今にして思えば、男は初めから、何かを決意していたのだろうか。
例えば、こうやって自分の前から、立ち去る事を。
「寂しそうね」
背後の声に、舞は、我に返る。
振り返るとそこに、素子が居た。
後ろを取られた不覚に悔やみつつ、そんなに深く入り込んでいる程、男を想っていた自分に愕然とする。
「あら、どうしたの?その顔」
「いや…何でもない。背後を取られた不覚に自己嫌悪しているだけだ」
素子はふふ、と笑った。
「そんなに、良かった? 彼」
言っている事の二重の意味に、即座に思い至って、上気してしまった。
今迄の自分なら、決して有り得ない。
「い、いや、その…」
「あらあら、ごちそうさま」
素子は、意味あり気な微笑を浮かべる。
「鈍かった芝村さんを此処迄にするなんて、妬けちゃうわねぇ」
「ち、違!」
慌てて失態をうち消そうとしたが、素子は全く意に介さない風情だ。
「隠さなくても良いのよ。恋人同士だったんだから、憚らなくったって」
と、素子は軽く溜息を付いた。
「…ねえ」
表情がしみじみとしたものに変わる。
「時間があるなら、一寸お茶しない?」
「…?」
「イマカノとモトカノで、アレを懐かしむ、ってどう?」
一寸笑んだその顔に、軽い哀愁がある。
舞は、静かに頷いた。
素子は舞を、無人の小隊隊長室に案内した。
逢瀬を楽しんだのは、何時もこの位の時間だったな、と舞は思う。
二人とも仕事が山積みで、なかなか時間が取れなかった。
だから深夜、皆が居なくなった頃を見計らって、舞が隊長室に忍び込む。
ハンガーより人の居ない隊長室は、絶好の場所だった。
「出来たわよ。はい」
素子は勝手知ったる手つきで、隊長室の湯飲みを取り出して、お茶を入れてくれた。
祭が隠してる緑茶をどこからか探し当てて、二人分の湯飲みに注ぐ。
「本当は紅茶が良かったんだけど、此処には無いのよね」
「良い。知っておる」
善行がよくそう言って、緑茶を入れてくれたのを思い出す。
あれはコーヒー党だったな、と小さく笑った。
「ふぅん…?」
意味有り気な素子の相槌に、思わず我に返る。
「い、いや!そ、そのち、違うぞ?」
「何が?別に私は、何も言ってないわよ?」
焦って舞は緑茶に口を付けた。
猫舌気味の舞にも飲める、優しい温度で、一気に喉に流し込める。
香りは変わらない、と思ったその時だった。
手から湯飲みが落ちた。
「…?!」
身体に力が入らない。
腰の力が抜けて、椅子に座る事すらままならない。
下半身と頭の芯だけが、奇妙にに熱く火照る。
「う…ぁ?!」
股根ががくがくと震え、その中から激しい熱欲がせり上がってくる。
意識を揺さぶる様な、淫欲の、波。
自らの身体に何が起こったのか、咄嗟に判らず、素子に目を向けた。
彼女の表情は特に変わっていない。
「ああそれ、催淫剤。そろそろ腰の力が抜けて立てない筈よ」
中身にそぐわない、無造作な、口調。
「な」
「即効性で、首から下の自律的な動きを奪っちゃう特別製なの。意識は弄らない習慣性のないやつなんだけど、これ使って、正気を保てた奴なんて知らないわね」
うっすらと笑って立ち上がった。
「あの陰気な娘にも何度か使ったけど、効果の程は高いわよ?」
そのまま舞の両腕を掴むと、ガムテープでグルグル巻きにして、床に転がす。
睨み付けた舞を、面白そうに見下ろした。
「壊れる様を見るのは楽しいわ」