扉を開くと、年輩のマスターが、その場に似つかわしい声で応えた。
「お早いですね」
善行もにこやかに応える。
「この処少し、暇になりましてね」
「…いつもの、ですね?」
「ええ」
落ち着いた雰囲気の、こじんまりとした、小洒落たスタンディング形式の、カウンターバー。
気に障らない程度にボリュームを落としたピアノ曲が流れる、落とし気味の照明でしつらえた店内は、無造作に置かれた古めかしい調度すら、実に似合いだった。
大概先客が一人か二人は居るものだが、今日はいつもより早く入った所為か、誰もいない。
「夜だというのに、外は、まだまだ暑いですね」
「ええ、でも、クーラーが使える様になりましたから…」
外の暑さを感じさせないのは、ごく微かに空調が働いてる所為と、知れる。
(それだけ、復興したって事か…)
やがて、善行の前に、オンザロックが置かれた。
小さく氷がぶつかる音を楽しみながら、琥珀色の液体をゆっくり流し込む。
と、
再び扉の開く音がして、隣に人の気配がした。
「折角の日だって言うのにこんな処に居て、もう…そりゃ此処は良いお店だけど、ウチの売上に貢献してくれればいいのに」
囁く様に呟いて、横に立ったのは、素子だった。
マスターが薄く笑って、肩を竦めてみせる。
応える様に彼女も笑って、ブラディーマリーを注文した。
「店は、どうしたんです?」
「主賓が貸切をすっぽかしたから、お休み。おかげで今月、赤字だわ。耳が痛い?」
「…御免なさい」
素子は溜息をついて、笑った。
「良いわよ。どうせ貴方の事だから、こんな事だろうと思ったけどね」
「すみませんね」
「謝るのは私より、彼等にして頂戴」
その言葉に合わせる様にして、遠坂、瀬戸口、精華の三名が、入ってくる。
「へえ、良い雰囲気だな」
「こんなとこ知ってるなんて、意外だわ」
「森君…」
彼等は口々に文句を言いながら、それでもオーダーを出す。
「探し当てたのは彼等よ」
素子の揶揄に、善行は肩を竦めた。
「…やれやれ。たまには一人で飲ませて下さいよ」
遠坂が、静かに微笑んだ。
「私達の目を逃れられるとお思いですか?」
出来上がってる風情の瀬戸口が、おどけた口振りで絡む。
「そうはいかないぞ?今日の主賓が」
「もう、瀬戸口君、だから止してって言ったのに」
精華は瀬戸口の腕を掴む。
「待ってる間に、すっかり出来上がってるんだから」
「我々の歓迎をすっぽかして一人で飲んでるなんて、納得いかないな。説明して貰おうじゃないか」
特に難詰口調ではないが、柔らかな非難は充分に含む様な、声。
「言葉を慎め、瀬戸口」
たしなめる遠坂を制する様に、善行は片手を上げた。
「構いませんよ。オフに上下を持ち込むのは無しにしましょう。我々は戦友ではありませんか」
「しかし…」
それでもなお、不満気な遠坂に、顔を近づけて、素早く囁く。
「遠坂君。年功序列を言えば、瀬戸口君の方が年上ですよ?」
「…はい」
「そこ、何ひそひそ話してるの」
答えに困る遠坂を後目に、善行は澄まして応える。
「何でもありませんよ」
「…流石に班長の扱いには慣れてらっしゃる」
「今の独り言は聞かなかった事にしますよ、遠坂君」
「まあ、でも、先輩には悪いですけど、場所が変わっただけで、此処でも出来ますよね?お祝い」
精華が言って、グラスを持った。
言われて遠坂、瀬戸口、素子が、自分のグラスを手に取る。
「騒がなければ、良いでしょう。と、言う訳で、誕生日、おめでとうございます、師団長」
「おめでとう」
「ハッピーバースデイ、元・委員長」
ささやかな、乾杯。
善行は、軽くグラスを上げて、応えた。
「有り難うございます…ですが、こういうのも、Happyって言うんですかね?」
素子が、相変わらずね、と言った表情で、肩を竦めた。
瀬戸口が詰め寄る。
「何言ってんだ!死んだ奴の事を考えろよ。生きられなかった奴が沢山居るのに、贅沢だぞ?」
「それは、その通り、なんですけどね」
善行は、苦笑を浮かべた。
「生き延びられて幸せ、位に思わないといけないんですが…その有難味が薄れる位には、戦後になったって事ですかね」
その言葉に、精華が思案顔になった。
「うーん…でも、勇美あたりが此処に居たら『老けていくって考えると、余り有り難くないかも』とか言いそう」
素子が眉根を寄せた。
「いやぁね。どうしてそんな事言うの?」
精華が悄気る。
「…すみません」
遠坂が、相槌を打つ様に口を開いた。
「確かに、目的を無くしてしまうと、そういう感じにはなりますね。戦争が終わって、ある程度普通に生きられる目処がついてくると、それまで必死になっていた目標が消えて、何をしたらいいのか判らなくなる」
「生きたい、という自己保存的な目標が消えて、生きる意味を問う様になってくると言う訳ですか。甚だ哲学的になってきましたね」
応えて善行は、再びオンザロックを口に運んだ。
先程と違って、少し苦みが加わった様に感じたのは、気の所為か。
「…無駄に長いのも…大変だからな」
思案顔の瀬戸口が、ぽつりと呟く。
場が少し、重くなった。
「−何辛気くさい事言ってるの!人生まだまだ捨てたものじゃないわよ?」
素子が、努めて明るい声を出して、笑った。
「そう、まだまだ恋だって出来るんだし☆」
その語尾の華やかさに、善行は思わず苦笑した。
「貴女は元気ですねえ…私はもう、こりごりですよ」
「そうね。貴方、大分後退してるし」
「何がです?」
素子は片目を閉じた。
「生・え・際」
その言葉に、面子の視線が一斉に、善行の額に集まった。
流石に気になって、咄嗟に額を隠し、抗議の声を上げる。
「な!何を言ってるんですか!これは刈り上げてるんであって、」
「へ…?」
「し、師団長?」
全員が呆気に取られたのも、つかの間。
場が一斉に笑いに彩られた。
「…な、何です、失敬な!」
素子が涙を拭きながら、応える。
「フフ、あはははは、冗談よ、冗談」
「タチが悪いですよ…!気にしてるのに」
「そ、そうなんですか?」
精華が、唖然とした。
「5121の頃から抜け毛が多くて…って何言わせるんですか!」
場は更に爆笑の渦になった。
他に客が居ないから良い様なものの、これでは雰囲気も何もあったものじゃない。
「フ…フ…あー可笑しい…」
やっと笑いがおさまって、素子は新たな涙を拭いた。
そのままふっと、真面目な表情になる。
「…」
「どうしました?」
「貴方も…普通の男なんだな、ってね…」
「当たり前ですよ。気が付かなかったんですか?」
素子は、何かを含む様な、静かな微笑を浮かべた。
「こんな簡単な事に気づけなかったんだから、私も子供だったって、事よね」
善行は、応えない。
「ずっと意地張ってたのが馬鹿みたい」
素子は、長く細い溜息を付いて、ぐっと身体を伸ばした。
と、不意にイタズラっぽい表情を浮かべて、善行を見る。
「そうさせたのは、誰の所為?」
「…私、ですか?」
「違うの?」
「…すみません」
「冗談よ」
柔らかな、間。
善行は、グラスを軽く揺らした。
「貴女は…随分と、良い女になりましたね」
「そうよ、知らなかった?」
「良い具合に肩の力が抜けた感じがしますよ」
「貴方は、こんなに良い女を、袖にしたのよ?」
自信たっぷりに、笑う。
「今の御感想は?」
「惜しい事をしましたね。勿体なかったと、悔やんでますよ」
「そうでしょう?」
善行は素子にだけ聞こえる様に、呟く。
「そんなにも、『彼』は…優しかったですか?」
素子は誇らし気に頷いた。
「ええ」
「もう、やけちゃうな。善行さんと先輩、妙に良い雰囲気」
精華がふくれ気味になる。
「我々は置いてけぼりですか、師団長?」
「何の話です?」
「またそうやってしらを切る。俺には丸聞こえなんだぞ?」
「拗ねないの。パーティすっぽかしのお詫びに、今日の此処は全部彼持ちだから」
高らかに宣言する素子に、抗議の目線を向けたが、彼女は知らんぷりだ。
「え、ホント?」
「やったあ、流石は高給取り。前々から飲んでみたいお酒があったのよね」
「太っ腹、って奴ですか? 話が判るじゃないですか」
口々に喜ぶ顔ぶれを見ながら、善行は苦笑混じりに溜息を付いた。
「…やれやれ。主賓はロハなんじゃないんですか?」
「なあに?文句ある?」
先に非があるのは貴方でしょうという視線に、肩を竦めて笑う。
「…ありません」
「よし☆」
心地良い幸せが、ゆっくりと心を充たす。
こんな気分を味わったのは、何年ぶりだろう。
速水を送り出した後の、達成感と連帯感が生み出したのかも知れない、
ささやかな、幸福。
これなら、生き残るのも、悪くないかも知れない。
「…ハッピー・バースディ」
善行は小さく呟いて、自分にグラスを掲げた。
今度の酒は、ひどく美味い気が、した。
- Ende.-