2.記憶
その日の戦闘も大勝に終わり、素子は自らの戦場であるハンガーで、夜明け近く迄整備兵達を指揮して働いた。その甲斐あって、何とか全ての士魂号を稼働可能な処迄仕上げる事が叶い、やっと帰途につけそうだった。
「ご苦労様」
頑張ってくれたメンバーに労いの言葉を掛け、送り出す。
素子は、周囲を片付けて、チェックをしてから、ハンガーを出た。
「!」
今しも善行が、小隊隊長室から出てくる処だった。
一瞬、双方の目が合う。
素子は先程見た、善行の上半身を思い出して、思わず目をそらした。
自分が戦場へ出てから、今迄見た事も無い様な、無数の激しい傷痕。
弾痕の様な小さなものから抉られた跡の様な大きいものまで、多種多彩な、痕だった。
それは、覚えている限り、出征前には無かったもの。
確かに、自分の知らない男がそこに居て、素子はそれに激しく動揺したのだ。
「貴女も、今、帰りですか?」
それでも男の声音は変わらない。
答えあぐねて、素子は取り合えず、頷いてみせた。
「御苦労様です。ウチの全ては貴女とテクノの皆さんに掛かってると言っても過言ではありませんから。倒れない様に、気を付けて下さい」
「…珍しく、優しいのね」
「何ですって?」
善行は眼鏡を押し上げて、そのまま軽く笑う。
「私は何時だって、優しいですよ?」
「…何寝惚けた事言ってるの」
「もうすぐ朝ですから」
「馬鹿」
少し、間が空いた。
善行はしばらく素子を見ていたが、そのまま踵を返して、帰ろうとする。
何となく帰したくなくて、素子は声を掛けた。
「…ねえ」
「はい?」
善行は足を止めて、再び振り返った。
素子はどうしようか迷って、結局、意を決した。
「…あの傷、何?」
「傷、ですか?」
「あの、さっき、見てしまったの。貴方の上半身」
善行の顔に、得心の表情が浮かぶ。
「ああ…あれですか」
「い、今時、傷痕なんて…その、ぐ、軍人特権で、クローニング技術を使って治しちゃうじゃない?あんなに傷残してる人は、初めて見たから…着替えの時とか、驚かれない?」
何を言ってるんだろう。
素子はしどろもどろの自分に動揺した。
善行は、そんな素子に、微笑んだ。
「普段は、浮いてませんよ」
「え?」
「先程の様にお湯を浴びたりして、血行が良くなると浮いて来るんです。これでも随分とラボの恩恵を受けさせて貰ったのですがね。余計な要望をした所為で、要らないおまけまで貰ってしまいましたよ」
「おまけ…?」
「最新の代謝促進剤の副作用で、体力消耗が激しくてね。司令官は運動量が低いので助かりますが、お陰でののみさんにも勝てない始末です」
「そんな…」
善行は片目を閉じた。
「貴女がそんな顔をする事ではありませんよ」
余程不安な顔をしていたらしい。
「っ!な、何よ!」
思わずその場を取り繕って見せたが、相手の余裕が癪に障った。
このままでは負けっ放しだ。
咄嗟に素子は、思いつきを口にした。
「傷背負ってる位でいい気になるんじゃないわよ!」
善行の動きが止まる。
「どうせ、貴方の事だから、罪の意識か何かでしょう?そんな事だけで救われた気持ちになろうなんて、いい加減にしてよ!」
言い放って、素子は自分が相手の図星を突いてしまった事に、気が付いた。
それほどに、透明な、善行の表情。
「…な、何よその顔」
「いえ。…感心させて頂いてる処ですよ」
男の口調には、抗い難いものがあった。
素子は居たたまれず、その場を駆け去ってしまった。
空がゆっくりと白んでくるのを眺めながら、善行はその場にしばらく立ちつくしていた。
「…流石に女性は鋭い、と言う事ですかね…」
ぽつり、と呟く。
大陸作戦から命からがら脱出して、萌共々ラボに担ぎ込まれた時、咄嗟に備考欄に書き込んだのは、「出来る限り傷痕は残す方向で」だった。それは自分の意図的な指揮一つで失った、一万人の部下に対する自分なりの鎮魂と謝罪のつもりだった。覚えておこうとしても、記憶はいつか薄れる。まして自分はあの約束と引き替えに、全ての思い出をあの大地に捨ててきた。その代わりに、身体に覚えさせておく。そう思っての、処置だった。
その結果が最新代謝促進剤の臨床実験による副作用だった事は、別に気にする程の事でもない。消耗速度に負けないだけの身体を作れば済む事だし、司令官で居る限りはそこ迄体力を使わない。今だって、戦闘の直前はドーピングして一時的に身体能力を高め、完全にしのいでいる。
だが。
「やはり、狭い視界では、判らない事もある、という事ですか…」
善行は、眼鏡を外して、空を見上げた。
ラボで治された視力は、裸眼でも問題なくはっきりとした視界を描く。
丸眼鏡は、一流の、隙。
最早、他者を欺き、表情を隠す為の壁でしかない。
「…皮肉なものですね」
彼の言葉は、中空に消えた。