眼鏡屋の店員は、実に愛想が良かった。
それはそうだろう。まさかこちらも、こんな短期間に作り直す羽目になるとは思わなかった。他の世界は知らないが、此処は戦時中で物資も不足している。眼鏡ははっきりいって貴重品だ。自分は士官で高給取りだから、作り直す事も叶うが、もしこれが下士官だったら当分は裸眼で頑張るしかない。
こんな時は少しだけ、あの尊大な上司に感謝したくなる。
「戦いで、でございますか、善行様?」
「ええ、まあ」
「大変でございますねえ」
まさかに女に壊されたとは言えないから、適当にお茶を濁す。顔に大仰な絆創膏が貼ってある所為か、店員は独り合点に騙されてくれた様だ。
今し方出た、視力検査の結果を記入した用紙を眺めて、店員が答える。
「あれからそう日にちも経っておりませんから、数値も変わっておりませんね。では、レンズは同じ仕様でお作り致しますが、宜しいですか?」
「そうですね。お願いします」
「かしこまりました。枠は如何致しますか?データが残っておりますんで、以前お選び頂いたものが宜しければ、似たようなのを探して参りますが」
頷こうとして、一寸、考えた。
「…いえ。少し、選ばせて頂いて、宜しいですか?」
「結構ですとも。どうぞ、お好みのものをお探し下さいまし」
さして広くもない店内を、ゆっくりと、見て歩く。
程なく前掛けていたのと、同じ様なフレームを見つけたが、何となく手に取る気になれなくて、眺めるにとどまった。
ハーフリムである以外は、何の変哲もない、地味な眼鏡だ。
地味な自分に似合いの、没個性な、手堅いデザイン。
これでも大学にいた頃は、多少は変わったモノも掛けたりしていたものだったが、軍人になるにあたって、やはり真面目なものに変えようと決めて、この形にした。
以来、ROTCからずっとこれできて、あの「男」に逢い、素子に逢った。
やはり、少しは堪えているのかも、しれない。
二三違うデザインのフレームを取って、鏡の前で掛けてみる。
どうにも、しっくりこない。
フレームを外して、自分の顔を眺めてみる。
三白眼の、据わった眼差し。
若干の乱視もある所為か、裸眼では睨む様になって、かなり怖い感じだ。
そういえば、萌が裸眼の顔を見て、初めは怖がっていた。
これでは確かに怖いだろう。
「善行様は奥二重なのでございますね」
側に居た店員の耳慣れない言葉に、思わず聞き返した。
「奥…二重?」
「上瞼が腫れぼったい感じに被ってますでしょう?こんな感じに重なってるのをその様に言うのですよ」
はれぼったい、という言葉は耳慣れなかったが、言わんとしている意味は音感で伝わったので、今度は特に聞き返しはしなかった。
なるほど、奥二重、か。ものは言い様だ。
「目つきが悪いのが、難でね」
笑いながら言ってみる。
「いえいえそのようなことはございません」
流石に接客のプロは笑顔を絶やさない。
今後を考えたら、この辺りは学ぶべき処があるな、と思った。
「以前のは、硬い感じだったので、今度は少し、ソフトにしてみようか、と思ってるんですよ」
「左様でございますか」
「今度行く職場が、かなりそんな感じなんでね」
おそらく、年齢的に十近くも違う学兵達と、交わる事になる。立場上、馴れ合ったり親しくするつもりはないが、ある程度精神的に近付く必要はあるだろうと思っていた。兵と完全に分離するのは、指揮の都合上、誠に宜しくない。
「では、思い切った形になさるのも宜しいかと存じます。善行様は、お堅い御職業ですから、限界はあると思いますけれど」
「なるほど」
相槌を打って、店のショーウィンドウに目をやる。彼の言うとおり、流石に、余り派手なものは掛けられないだろうが、イメージを変えるのは、良いかも知れない。
ふと、向かいの店の、古い広告ポスターが、眼に入った。
名の知れたサッカー選手が、気取ってデジタルカメラを持つ、大判のポスターだ。
あのデジカメには、学生時分、随分お世話になった。スペックを見ていっぺんに気に入り、高いのを無理して買っただけに愛着も一入で、実家にはまだ大事に保管してある筈だ。
「思えば、写真もやらなくなって久しいな…」
店員には聞こえない様、口の中だけで呟く。当たり前だが、愛機の一眼レフは、入隊する折に全て置いてきた。レンズもきっとカビが生えている事だろう。そこまで手入れをしてくれる程、家人はこちらに興味を置いてはいまい。
「…」
そんな事を取り留めも無く考えている内、ふと、彼の格好が、気に入った。
そう流行りとはずれていない、ストリート系の着崩しは、悪くない。学兵の年齢的な問題からか、確か今度支給される制服に、似たようなデザインがあると聞いていた。それに彼と自分とは、年格好も近い。
「あれで…行くか」
「…はい?」
今度は少しはっきり口に乗せてしまったらしい。耳聡く、店員が側に寄ってきた。
「何か、お気に召しましたでしょうか?」
視線をずらして、彼が掛けている、些かオールドファッションっぽい真円のフレームを探してみる。
あった。
台の側に寄って、手に取ってみる。
殊の外、軽い。
「お目が高うございますね。それは、本物のチタンを使ってございます。軍需施設から出た、最新の技術で作られたものでございますよ」
軍需施設からの流出モノ。そんな出物がこんな店にある事が、俄に信じられなくて、つい、皮肉っぽい口調になった。
「…そんなものが、この辺りにあるのですか?」
こんな若造の嫌味にも、店員は穏やかな笑みを絶やさない。思わず、反省した。
「流石に私どもも、商売が長うございますからね。周囲を憚る言葉ではございますが、その、芝村様とも、お取引させて頂いておりますから…」
「芝村、ですか…」
今度は気分を表情に出さない事に成功した。
そのまま、フレームを掛けて、表情を見る。
雰囲気が変わって、人をくった様な、とぼけた感じになった。
目つきの悪さも、大分緩和された、気がする。
これでレンズに色でも付ければ、更に面白い事になるだろう。
これは、悪くない。
「これを、貰いましょう」
店員と同じ様に笑って、フレームを外して渡す。
「こちらで、ございますか?」
少し店員が戸惑うのを、見逃さなかった。
「…似合いませんか?」
「いいえ。ただ、随分と以前に比べて、雰囲気が変わりますが…宜しいのでございますか?」
なるほど、プロを戸惑わす程に雰囲気が変わるのなら、それは良い。
にっこり笑って、彼に応える。
「ええ。これから私は、子供の相手をしに行くのですから」