2.乖離
外光のみで薄暗い会議室に、若宮は素子を入れると、縛るでなく椅子に座らせた。
「…」
素子は口をつぐんだまま、若宮の方を見ようともしない。
血にまみれた白い制服。
腹の辺りに塗りたくられた血は、原の黒いストッキングにたっぷりと染み込み、太股や脛をつたう様に、足下に滴りおちている。
極めて酸鼻な光景の筈なのに、若宮は彼女に欲情している自分に気が付いて、軽く頭を振った。
「…何故こんな事をしたんです」
絞り出すように、問いかける。
「どうして、こんな…!」
返事は、ない。
「自分は…自分には信じられません。素子さんが…まさか、こんな事をするなんて」
「…」
「速水は裏切るような奴じゃありません。それは、自分が保証しても良いです」
「…友情を裏切っても?」
素子は、ぽつり、と呟いた。
「…素子さん?」
「あの子は貴方を出し抜いて、私に告白したのよ?…それは、裏切りじゃないの?」
「素子さん…」
「『親衛隊』って言うのは、彼氏の存在を認める様なモノなのかしら?だとしたら」
言葉に、嘲りの匂いが、強まる。
「とんだお人好しの集団だわ」
憧れの人が見せる、精一杯の虚勢。
若宮にはそれがとても、痛ましいものに映った。
「…素子さん」
「何?そんな目をして。憐憫のつもり?貴方どうしようもない馬鹿ね」
「…」
「戦争ばっかりやってる筋肉頭には判らないかも知れないけどね、あの子は、速水厚志って男の子は、徒者じゃないの。あれが全てあの子の嘘。本当のあの子は、貴方なんかに測れない位、嘘吐きなのよ。貴方、あの男の教官だった事もあるなら、その位判るんじゃなくて?」
素子に言われるまでもなく、速水の本質には、気が付いてない訳でも無かった。幾ら学兵の中に馴染んだとはいえ、そこまで嗅覚は鈍くない。だが、それでも、速水が何かに変わろうと努力していた事だけは、信じてやりたかった。それに。
あの男−という形容に含まれた、速水を指すのと微妙に異なる、歪んだ何かを若宮は自然に感知した。
その方が、裏切りではないのか。
「それでも、自分は彼等を信じておりますから」
含まれた意味に、素子が気が付いたかどうか。
途端に興味を失った目が、中空を舞う。
呟いたのは、只一言。
「意気地無し」
彼女はついに一度も若宮を見なかった。
ノックが聞こえた。
「若宮十翼長。善行です」
男の声に、素子の身体が身じろぎした。
若宮は先程の直感に確信を持ちつつ、返事を返す。
「は!」
返答を受けて、会議室の扉が開き、善行が入ってきた。
こちらも素子ほどではないが、速水の血に塗れたままだ。
「MPが来る前に、二三状況を確認します」
律動的な足取りで素子の前に向かい、椅子に座る。
「出てましょうか、司令殿?」
気を利かせて訊ねてみる。
善行は丸眼鏡を中指で持ち上げてから、口を開いた。
「…そうですね。貴方に聞かれて困るような事はないのですが、外に野次馬が増えても困りますんで」
「…相変わらず屁理屈がお上手で吐き気がするわ」
善行は素子の嫌味に一瞬眉をひそめたが、目顔で若宮に合図した。
若宮はそれを受けて、軽く敬礼し、会議室の外に出た。
心が少しだけ、痛んだ。
「…やってくれましたね」
善行は溜息と共に、素子を見る。
素子は悪びれた風もない。
「機密漏洩に、殺人ですか。最早、助けようがない」
「…助ける気も無いクセに」
「これでは助けられるものも助けられませんよ」
「はっきり言ったらどう?自分の出世の邪魔をしたって」
善行は再び溜息をついた。
「出世コースなんて、とっくの昔に無くしてますよ。それは貴女もよく御存知でしょう?」
素子はほの冥い笑みを浮かべた。
「知ってるのよ…?貴方、あの二人で、何かやろうとしてたでしょ…それが成功すれば、中央に帰れたんじゃないの?」
善行の表情は変わらない。
「でも、それもこれで終わり。速水君は死に、恋に免疫のない芝村の小娘は、おかしくなる。貴方の目論見はパァ。フフフ…どう?思惑が狂うのは」
素子はうっとりと、宙を眺めた。
「悔しいでしょう…?私が憎いのではなくて?…フフ…私の事件の責任を取って、貴方は降格?それとも除隊?いいえ、きっと知りすぎてる貴方は私と一緒に銃殺か、最前線に投入されて、今度こそ生きて帰れない」
ぎり、と目つきがきつくなる。
「ざまあみろ!」
善行は、そんな素子を見つめていたが、やがて、三度目の溜息をついて、立ち上がった。
座っていた椅子を片付けて、扉の方に向かって歩き出す。
そんな善行の背中を、素子は怪訝そうに見上げた。
「…何よ」
「貴女と話す事は、何もありません」
「…なっ!」
顔を朱に染めて、素子が立ち上がる。
彼女に背を向けたまま、扉に手を掛けて、善行は立ち止まった。
一瞬だけ、その眼鏡の向こうの目が閉じられたのだが、それは、素子には見えない。
「速水君が、哀れだ」
「…!」
素子は、何かを飲み込んだような顔つきになり、そのまますとん、と力無く椅子にくずおれた。
善行はそのまま、外に出た。