月の冴えかかる深夜。
夜食を食べ終えて、食堂兼調理室から出てきた善行は、プレハブの屋根の端に腰掛けて、空を見ている速水を見つけた。
何となく双方の目があう。
「そちらに行っても良いですか?」
速水が頷くのを確認して、善行もプレハブの屋上に上がった。
此処は市街の筈だが、灯火管制の所為か、満天の星空が、美しい。
速水は空を眺めながら、深紅のスカーフを弄っている。
「…この時期司令なんかやってると、頭の痛いことが多くて大変だよ」
「ご苦労様です」
速水は、軽く揶揄するような目を向けた。
「狡いな。本当は君の仕事だろ?」
善行は笑い含みに応える。
「そうですね。楽が出来て助かります」
「何をさせるつもりだ?」
静かな、間。
「何の話でしょう」
善行の色付きレンズは、深夜だというのに、光を含んで容易に目の表情を読ませない。
速水の表情にも、変化はない。
「とぼけるなよ。そうやって後ろから見ているクセに。そうやって、人を監視し、意のままに操るのが、君やあの一族のやり方だ。自分たちだけが知っているルールを駆使してね。」
再び速水は、座ったまま、善行を見上げた。
「一つ忠告しておく。僕は他の人間なんかどうでもいいんだ。彼女さえ生きていれば、それで良いんだよ。この世界が壊れたり、他の人間が死ぬと彼女が悲しむから、一緒に守っているだけだ」
左腕でチン!と甲高い音がして、善行は思わず左手首を見た。
多目的リングの心臓部・結晶の1mm真横に、測った様に傷がついている。
速水を見ると、何処で手に入れたものか、彼は小さなレーザーメスを弄んでいた。
「何を求めているのか知らないけど、勘違いしないで欲しいな。僕は正義の味方でも、救世主でもない。ただのエゴイストさ。僕は優しくなんかないんだ、っていっただろ?」
淡々とした口調は、変わらない。
相変わらず、少し女性的で、優しく穏やかな、高い声。
速水は、にっこり笑った。
「僕はいつだって、笑って君を殺せるよ。」
善行も、微笑み返す。
「結構。それで構いませんよ。私の命なんてそんなものですから。」
ささやかな、間。
どちらともなく二人は、地平の彼方を眺めた。
静かに時が流れてゆく。
速水が、口を開いた。
「…この前、舞がさ…ブータを相手に格闘している処を見たんだ。格闘、といってもほんとに戦ってる訳じゃないよ。触ってみたくて手を伸ばそうとしてるんだけど、今ひとつ勇気が出なくて、身動きが取れなくなってた。僕も撫でさせてあげようと思って、ブータに協力させたんだけど、失敗しちゃってさ。舞はひどくしょげてた」
速水は顔を膝に埋めて笑う。
「…可愛いよね、舞は」
「楽しそうに話される。…本当に、好きなんですね」
善行は微笑みを浮かべた。
「当たり前だろ?僕にとって彼女は全てだ」
「ええ、そうですね。彼女は本当に可愛い…とても芝村には見えない処も含めてね」
ちら、と目線が速水を見る。
速水は満面の笑みを浮かべて応える。
「だろ?」
速水の表情に、ふいにいたずらっぽいものが浮かんだ。
「そっちは、どうなの」
「何の話です?」
「精華から聞いたよ。君、昔、原さんとつき合っていたんだって?」
「昔の話です。今は何もありませんよ」
「本当?」
速水は、楽しそうな中にも半信半疑といった表情だ。
「私の方はね。向こうはどうだか知りませんが」
「罪な男だな。僕の見たところ、全然忘れられないみたいだけど? 気分に任せて、石津さんや田辺さんを虐めたりしてる。あれは放っておくと危ないと思うよ」
善行は苦笑した。
「他人には興味が無いんじゃありませんでしたっけ?」
「興味はないさ。ただ、あのままじゃ部隊運営の邪魔になる、と思っただけ。−君と同じだよ」
「…私にはどうする事も出来ませんよ」
「へえ、そう」
「こればっかりはね。これは、彼女自身の問題ですから。私がとやかく出来るものじゃない」
「冷たいんだね。君が原因かも知れないのに」
善行は中指で眼鏡を押し上げた。
「だとしたら尚更です。彼女が自分で何とかしようとしない限り、他の誰にも解決できないですよ。そう、それこそ私なんぞが関与したら、とんでもない事になります。解決できるものも出来なくなる」
速水はぐうっと伸びをしながら、息を吐く。
「…流石に、よく知ってるって事かな」
善行が笑う。
「…それはもう、うんざりするほど。」
つられて速水も笑った。
「やっぱり君は悪いヤツだ。原さんが可哀想になってきたよ」
「誉め言葉として、伺っておきますよ」
速水は、笑いを収めると、意地悪そうな表情を浮かべた。
「良いのかな?そんな事言ってると、若宮十翼長に勧めちゃうよ?」
「構いませんよ。その方が彼女の為にも良いんじゃないですかね」
善行の微笑は変わらない。
速水は笑顔で、軽く溜息をついた。
「全く…」
また少し、時が流れた。
徐に、善行が口を開く。
「…あの事件について、残された資料を読みました」
主語は要らない。共にそれだけで、何を言わんとしているか、通じていた。
速水の、レーザーメスを弄んでいた手が止まる。
「何を、どれだけ知っている?」
表情が少しだけ、改まった。
「…大したことは、何も。全ては推測の域を出ません」
速水の口元に、皮肉気な笑みが浮かぶ。
「君が何処まで閲覧できる立場にあるのか知らないけど、その資料に残されたことは、多分万分の一も正しくない。本当の真実は」
速水の手が、自分の胸を示す。
「此処だけにある」
あるラボで起きた、全職員の惨殺事件。確かに、ラボの中で行われたその全ては、唯一の生き残りである彼だけが知っている筈だった。
その犯罪の、最大の容疑者である、彼だけが。
だが、善行にも、速水にも、そんな事はどうでもよかった。
二人とも、ただ、事実を確認をしているだけだ。
速水は続ける。
「あの一族が僕に求めるモノを、僕は一つだって奴らの望むようには渡してやらないつもりだ。僕の大切なあの子を、あんな風に扱う奴らに、いい顔をしてやる義理はない。そうだろう?」
善行は表情を完全に消していた。
かろうじて眼鏡越しに見えるその目からは、何も伺い知る事は出来ない。
速水も、全くの無表情だ。
「君が向こうに付くというのなら、それで一向に構わない。だが、その瞬間から、君は僕の敵だ。そして僕は、敵に笑えるほど寛容じゃない。」
カチリ、と小さな音がした。
速水の目が、音の方を向く。
善行がその多目的リングを外していた。
「…君は僕達と違って、それが外せるんだったな」
「それが果たして良い事なのかどうかはわかりませんが、こういう時には、介入されずに済むのが助かります」
善行は薄く笑った。
「信じろとは言いませんが、私は、貴方の味方ですよ。少なくとも、貴方があの子を守ると言う間はね。あの一族の思惑は別にして、彼女が死ぬ事は、私にとっても有り難くない。そして、同じ事を思う者が、この小隊には私の他に3人、居ます。彼女が生きている間、彼らは、間違いなく、貴方の味方です。それほどにあの子は、希望なのですよ。ののみさんと同じくね。あの子の存在を特別に思うという一点に於いて、我々は同盟者となり得ると思いませんか?」
「岩田みたいな事を言うね」
「そうですか?まあ、彼とはつき合いも長い。似る事もあるでしょう」
速水は笑った。
笑った後、真顔に戻る。
「証明、できるか?」
「無論。貴方の望むとおりに。」
「では次の戦闘で、その言葉を確認させて貰う」
そう、貴方はそれでいい。
応えるように善行は、不敵に笑った。