だからさ、座興ってやつだよ。
戯れさ、戯れ。
こんなの、どうせどこにも残りゃしないんだから。
1.
幾ら、他には誰もいないとは、いえ。
「よう」
善行は、眉を顰めた。
軍服をだらしなく着崩した、目前の男からは、随分と熟柿の匂いが漂っている。
彼とて上戸のウワバミだから、これが酒の席やプライベートなら、気にならないだろう。
それに、速水厚志が中央を掌握した今、実績を上げ、その幕僚の殆どを占める旧5121小隊出身者に、何かを言えるものは誰も居なかった。
だとしても、場所が悪い。
そこは仮にも、統合幕僚本部の、執務室だったから。
「又朝迄飲んでましたね?」
軽く咳払いをしてから、たしなめた。
「あ?」
要領を得ない顔で聞き返す男に、溜息を付いて。
「…酔えないくせに」
へらり、と男は笑った。
「俺はさ、利口じゃないから…あんたみたいには生きられないのさ」
それを受けて、苦笑する。
「こういうのは『小賢しい生き方』と言うのですよ。…誉められたものじゃない」
ついでに大仰に、肩を竦めて。
「力翼が数あった処で、大した役にも立ちませんしね」
男も、肩を竦めて見せた。
「…違いない」
男の目が、アレは?と言う具合に訊いてくる。
「相変わらずですよ」
善行は余り意味が無いと知りつつ、少しだけトーンを落とす。
「昼は戦場で屍山血河を築き、夜はベッドで屍山血河を築く、か」
男の声が、歌う様に、響く。
「瀬戸口君」
心持ち強めた語気に、男はひらひらと手を振った。
「はいはいわかってますよ、参謀総長殿」
へらへらと笑っていた顔が、真顔に、なる。
「見ただろう?アイツは壬生屋を…あの娘をいとも簡単に殺したんだ」
見たも何もない。
正に善行はその現場に居たのだ。
未央の部署が手薄だからと、自ら一個中隊を指揮して援護に回ったその時だった。
「厚志!」
自分の担当部署の幻獣を、記録を塗りかえる程の最短で屠ってきた『英雄』が只一人、纏うオーラも鮮やかに、現れた。
「我に任せよ」
絶望に打ちひしがれた兵が歓呼の声を上げる。
先頭に立って、奮戦していた未央が、輝く様な笑みを、向けた。
「はい!」
その、刹那。
『英雄』の手が、未央を、貫いた。
否。
未央の背後の幻獣を、縊り殺していた−彼女を胸を貫いた、その腕が。
『英雄』の顔は、変わらない。
引きぬいた腕の『跡』から、掛かる血すらも、彼を、美しく飾るだけ。
ただ、未央の顔だけが、起きた事を理解出来ないまま、歪む。
「!」
吐き出された血の鮮烈さと、壮絶な迄の顔の白さは、まだ記憶に生々しかった。
それからだ。
畏怖と疑いとが静かに広まり、
目の前の男が、目に見えて、荒れ始めたのは。
「…今の彼は、貴方でも、厳しいと思いますよ」
求められてもいない言葉を、返す。
まるで、確認する様に。
「…多分」
ぼそり、と男が呟く。
「きっかけは何でも良かったんだろうな」
「…」
「あの娘の事は、口実に過ぎなかったのかもしれない…」
歪んだ、笑み。
「芝村の奴らは期待してるのさ。俺と奴が潰し合うのをな」
さながら、自虐的に。
「…何れはぶつかると、判っていたんじゃないのか?」
善行は、無言の、まま。
男も、応えは、求めて、いない。
「…解ってる」
男は、にや、と軽やかに笑う。
「だからさ、座興ってやつだよ」
その髪が、さわさわと伸び始める。
「戯れさ、戯れ」
髪の色が明るい茶から、鮮やかな緋色に変わる。
「こんなの、どうせどこにも残りゃしないんだから」
縦に割かれた、血の如き、紅玉が、両の眼窩に踊る。
背後にゆらめく、暗紫の焔。
「その姿を間近に見るのは初めてですね…」
善行の呟きに、男は、発達した犬歯を閃かせて笑った。
「歴史の一頁にすら名の残らぬ者の、歴史の表舞台に名を極めるモノへの挑戦だよ。
こんなのも、お伽話の中身としては、一興だと思わないか?」
碧羅の異形は背を向ける。
「諦めないで居れば、必ず時は来ます」
静かな善行の声に、その、大きな片手を上げた。
「絶望するのは、まだ早いのではありませんか?」
言葉が終わる間もなく、その姿はかき消える。
「…瀬戸口君!」
その名は伸ばした手と共に、虚しく、空を切った。