仕事から戻ってきた香織がそれを拾ったのは、本当に偶然だった。
整備員詰所に落ちていた、一枚の写真。
どうやら集合写真の様だが、余り良い紙を使って無いのか、ヒトの顔も識別不能な位、すっかり色褪せている。
「この辺じゃ、余り見ねえ格好だな…」
眉間に皺を寄せて、矯めつ眇めつ数十分、ようやくそれが自衛軍の制服だと気づいた。
しかも背景が、異国情緒たっぷりである。
となると、心当たりは一人しか居ない…年齢的に。
教師という選択肢は意図的に外す。此処の先公はどいつも苦手だから。
「あのスカウト野郎って事はねえな。こんなもん、持ってそうにねえし。」
香織は勝手に結論付けると小隊隊長室に向かった。
木切れのぶら下がった入り口を潜ると、中では目当ての男が只一人、黙々と山の様な書類に目を通し、或いは書き込み或いはサインといった作業を繰り返していた。
既に帰ったのだろうか、事務官の姿は見当たらない。
香織はふと、自分の憧れていた先輩がこんなだったのを思いだして、しばらく善行の作業を眺めていた。
「…何か、御用ですか?」
突然声がして、我に返る。改めて見直すと、善行は特に顔を上げた風も無い。
作業する手を止める事無く、ただ、その口だけが再び動いた。
「私に何か、用ですか…?田代さん」
淡々としたその声音に、用事を思い出す。
「お、おう」
「何でしょう?−この山を今日中に片付けなきゃならないんで、よろしければこのまま伺いますが」
香織的には、普段なら「馬鹿にすんなテメ人の顔ぐれぇ見ろこの野郎!」位は言う処だが、確かに忙しそうだ。自分なら一分と保たず音を上げそうなデスクワークに、少しだけ譲歩する事にした。
「構わねえよ」
言うなり香織は、つかつかと司令机に歩み寄ると、拾った写真をぱん、と置いた。
「…これ、お前のか?」
善行の手は止まらない。
「詰め所に落ちてた。ウチで、こんな奴らに縁がありそうなのはお前位だと思って、持ってきた」
返事は、ない。
まあ、こんなものだろう。真面目な奴らは何時でもこうだ。
香織は、一人合点に頷くと、背を向ける。
「じゃ、確かに渡したぜ」
隊長室を出ようとした、その時だった。
「待って下さい」
穏やかな声に、思わず香織は足を止めた。
「折角ですから、一服して行きませんか?」
振り返ると、善行が司令席から立ちあがる処が目に入る。
「事務官秘蔵の銘茶を出しますよ?」
眼鏡を押し上げる指の隙間から見える、笑み。
「っせえな…用は済んだんだから良いだろ?」
素直に受けるのも何となく照れくさくて、ぶっきらぼうに返事をした。
「まあ、良いじゃないですか」
言いながら、善行は写真を持ち上げて、片目を閉じてみせる。
「こいつを届けてくれた、御礼です」
小隊隊長室に、緑茶の香りがゆっくりと、漂う。
「丁度休憩する口実が欲しかった処なんですよ」
「面倒臭えやつだなあ…休むのに一々言い訳がいるのかよ?」
「何事にも区切りってものが必要でね」
「そういうもんかねぇ」
湯飲みをずーとすすって善行は、はーと溜息を吐く。
「かー!爺臭ぇなー委員長は!」
「そうですか?」
「そうですか、ってあのなあ!」
言葉を継ごうとして、香織は、善行が写真を眺めているのに気が付いた。
うっすらと浮かぶ柔らかい笑みは、彼女が今迄、見た事の、無いもの。
「…委員長」
「はい?」
「それ…ダチか?」
少し間を置いて、応えが返る。
「家族ですよ」
「家族、か…」
香織も善行の入れてくれたお茶をずずずとすする。
「…確かに、戦友は家族以上だからな」
言いながら、自分のかつての戦友達を思いだす。
みんな気の良い奴だった。よく馬鹿騒ぎしては怒られたりしたものだった。
−もう、この世には、一人もいないけれど。
善行の写真の顔ぶれもそうなのだろうか、と香織が漠然と思った時だった。
「未練…ですかね」
ぽつり、と善行が呟いた。
「この写真ね…もう、データが残ってないんですよ」
「え?」
「元が銀塩じゃない、デジタルなんです。戦いでカメラごと焼失して、試し刷りのこれだけが、生き残った」
その眼鏡越しの目が、写真を見つめる。
「粗悪な紙とインクを使ってるから、耐性が無いんです。だから、色あせる前に全部消えてしまう」
淡々と語る口調には、いとおしむような色が、濃い。
「消えた後も後生大事に持っていたとしても、この紙が保たずに粉々になるのは時間の問題です。後には何も残りません」
そんな善行は香織の初めて見るものだった。
だから、動揺した。
だから、必死になって言葉を継いだ。
「でっでもよう!記憶は残ってるだろ?奴らとの思い出とかさ、」
善行は香織に、寂しそうな笑顔を向けた。
「…その記憶も薄れ掛かっている。もう誰一人として、この世には残っていないのに−私は、冷たい人間ですね」
ずきん、と来た。
よく分からないけど、これじゃいけない。
香織は必死に頭を巡らしながら、口を開いた。
「でもさ、白って色は残ってるだろ?」
「え?」
「白は、無くなってる訳じゃない。それは確かにあったんだ…そうは、思わねえか?」
善行の目が、香織を凝視する。
「そりゃあ委員長はさ、オレと違って頭が良いから、色々と面倒くさい事や難しいこと考えたりしてて、オレには判らないような悩みもあるんだろうよ。でもよ、もっと単純に考えてみても良いんじゃねえの?」
一生懸命、思った事を口にする。
「オレは馬鹿だからお前がそういう風に悩むの、よくわかんねえけど、写真が消えるってのはさ、お前がそんな風に悩む奴だから、それを忘れてもいいよ、ってダチが言ってくれてんじゃねえのかな」
「…」
「へっ、こんなの、自分勝手な考えだよな。オレも確かにそう思うよ。でもよ、万が一忘れても、やった事は身体が覚えてるもんさ。例えダチの記憶が薄れたとしても、身体の何処かが奴らに馴染んだ事を覚えてる。やつらが頭から消えようとするのは、そういうお前の邪魔をしたくねえと思うからなんじゃねえのかな。その写真だって消えちまうかも知れねえけど、確かにお前の中には白って色が残るんじゃねえの?−オレは、そう思う」
そこ迄一気に言って、香織は息を吐いた。
忘れないと力んでも、ヒトは生きる為には思い出に縋るだけでは生きていけない。
生きる為の糧にはなっても生物としての生はそんなものでは続かない。
そんな事を、伝えたかった。
忘れることを悔やんで忘れたがらない、ひとのために。
それはまんま、過去に囚われる自分への、言葉でもあったけれど。
「…へへ…ガラじゃねえな」
照れて頭を掻いた拍子に、目があった。
それは、何かに驚いたような、顔。
その目はまっすぐ香織を見つめていた。
「な、何だよ」
「…いえ」
「…どうせ馬鹿だと思ってんだろ?オレみてえな奴の話しなんざ、聞いたって面白くもねえだろうからな」
「そんな事は無いですよ」
静かな声。
「貴女の言葉で…少し気分が楽になりました」
す、と善行は、香織に頭を下げた。
「有難う」
−Continuous End.−