3.閉じられた輪(承前)
瀬戸口の気配が消えて大分経った頃、善行は訓練を切り上げて、プレハブの前に戻ってきた。シャワーを先にするか、食事を先にするか、思案しながら空を見上げる。 「精が出るな、善行」
プレハブの屋上に、舞とおぼしきシルエットが、あった。
「やれやれ、此処は私の年齢や階級は関係ないらしい。さっきから呼び捨てばかりだ」 舞は、何やら考えるような仕草をしたが、再び顔を上げた。 「−上がってこないか。話が、ある」 その声に、微かな逡巡を感じて、善行は、少し考えた。
「…良いんですか?」
その余りにあっけらかんとした問いに、気が抜けて、屋上に上がる。
「何が良いのか、だと?一体何の話だ善行」 舞は、少し沈んだ様な顔をして、視線を市街地に向けた。 「少し…判らなくなってな…」 その背中が少し、小さく見える。 「善行。私は、今迄自分の闘いの為に、迷った事はない。芝村の名を持つ以上、人の上に立つ我らは、少なくとも守るべき民の前で迷う訳にはいかない。迷う事は人々を不安にさせる。それは、我らにあってはならぬ事」 きゅ、と手が握られる。 「だが今私は迷っている。芝村にあるまじき事だが、心が揺らぎ始めている。果たしてこの闘いは、正しいことなのか、とな」
彼女の目は、遠くでチカチカと輝いている空を、見据えている。
「間違うなよ、善行。戦うからには、我が身が楯となり、先陣を切る。この作戦を進める事にも迷いはない。投入される兵共について、感傷的に思い悩む事も、我らにはない。人道?正義?そんなものは我らには無縁だ。私の悩みは別にある」
燃えさかる炎の如く、ぎらぎらと輝く眼差しに、善行は再び、強烈な力を感じた。
「何故それを、私に?」 不意に舞は、小さく笑った。
「…まあ良い。それならそれで構わぬ。ならば善行、その只人の勘でどう思う?私の読みは間違っていないか?」 濁した語尾に被せる様に、激しい言葉が続く。 「言っておくが、思考停止は許さぬ。『只人だから判らぬ』等とは言うなよ。お前の最大限の思考で以て答えて見せよ」 答えを先回りされて、善行は内心苦笑した。 「参りましたね…私には難しい問題です。ですが」 考えながら、言葉を継ぐ。 「芝村的に答えるなら、どんな策謀が隠れていようと、貴女が正しければ、勝てるのではありませんか?」 舞は振り返って、善行を見た。
「これが他者の定めた運命だと言うのなら、その不屈の強い意志で、運命ごと、押し潰してしまえばいい。逆に彼等の思惑を利用する位の心積もりでいれば、そうそう恐れる事もないと思いますよ」 善行は眼鏡を押し上げた。 「さて、どうでしょうね」 舞はそのまま、ニッ、と笑った。 「お前の考えは、悪くない。確かに、その通りだ」 舞と別れて屋上を降りた処に、人影が、あった。 「…お盛んね」 素子だった。 「さしずめ、深夜の逢い引きって処かしら?」 言葉の裏に何かの隠れた、絡みつく様な物言い。 「これ、速水君に言ったら、どうなるでしょうね」 あんな物騒な語らいでも、彼女には甘い囁きに聞こえるらしい、と善行は内心肩を竦めた。
「…貴女もつまらない事に、時間を割いてますね。私など見ている暇があったら、仕事をしなさいと言ったでしょう」 素子は、善行を睨み付けた。
「…貴方、何を企んでいるの?」 またこの話か。善行は思わず苦笑する。
「やれやれ、何か悪い噂でも流れてるんですかね。さっきも瀬戸口君に似た様な事を言われましたよ。何処をどうしたらそんな噂が流れるんです?私にそんな力など、ある訳無いじゃありませんか」 何となくぴんと来た。 (…速水君、か) あの男なら、この位の事は平気でやるだろう。それだけの能力は持っている。 (−「舞に近付くな」という警告だな…)
『噂』による、意図的な、監視。 それはもう、哀しい位に、自分の役回りを認識しない、人物が。 善行は、素子を見た。 「何時迄私を見ているんです。貴女とは、とっくに終わった筈だ…いい加減にしなさい」 素子の頬に、朱が走る。
「しょわないでよ…っ!」 善行は軽く微笑すると、素子の側を通り過ぎる。
「彼にデリカシーが無いというのなら、私なんか尚更ですね」
素子は愕然とした表情で振り返り、その視線で男を追った。
「…」 不意に、その背中が立ち止まる。
「…貴女にはもっと、良い人生を送る権利が、ある」 素子の口が、その名を呼ぼうと開かれた、それより早く。 「私の事など、忘れなさい」
善行は再び歩き出し、振り返る事はなかった。 |