何処までも闇、だった。
たまにともされる明かりすら、時を知らせ得る事も無い。
何処までが夢で、何処までが現か、全く判らない。
ずっと、悪夢を見ているのだから…
「それではこちらでお待ちくださいまし」
「お、おい、一寸待て!」
案内した年かさの女官は、彼の言葉を無視して扉を閉めた。
余りの無礼にあわてて追いかけたのだが間一髪で扉を閉められてしまい、闇の中に閉じ込められてしまった。
「…窓も無いなら灯りくらい置いていけよな…」
ラインハルトは独りごちた。
久しぶりにアンネローゼへの目通りが叶い、浮かれ気分で館迄やってきたのだが、
「承っております。こちらへお出でください」
応対に出た顔なじみの女官のいうままについてきて、この家主に似合わない部屋へ通されたという訳だ。自分を快く思わない者による陰謀かと思った刹那に、ぼう、と暗い明りが灯る。決して辺りが見える程に充分な明るさではなかったのだが、我知らずラインハルトは安堵の吐息をついた。そして、姉が何か趣向を凝らしているのだろう、と思った。
(キルヒアイスの奴も来れば良かったのに)
普段は絶対にアンネローゼへの謁見を断らないキルヒアイスが、今回は珍しく軍務があるとかで同行していなかった。名残惜しそうに「アンネローゼ様へ宜しくお伝え下さい」と何度も言われたのを思い出す。今日のこの話をしてやったらどんな顔をするだろうか、と思うと自然に口元が緩んだ。
と。
「!」
人がいないと思ったその部屋に、影が1つ。
それもラインハルトの正面に浮かび上がるように、立っていた。
室内にたった1つしかない光源を背に、亡霊の様に立つ人影。
「…ラインハルト」
彼が誰何する前に、人影が口を開いた。
アンネローゼ、だった。
「…脅かさないで下さいよ、姉上」
「そ…う?」
その返事はどこかうつろだったのだが、ラインハルトは意に介さなかった。姉に逢えた喜びで些細な事は意識野に入らないのが彼の常である。自然饒舌になったのも気安さの現われであろう。
「そうですよ。姉上が誰かに囚われてしまったのかと思って、冷やりとしました」
びくん、とアンネローゼの頬が動いたのだが、やはりラインハルトは気付かない。
「あ、でも、心配無用ですよ姉上。何処に居ても、必ず助けに行きます。どんな事をしてでも、必ず。キルヒアイスと二人で、姉上を何処からでも救い出して御覧に入れます」
そして何れはあの男のいる後宮からも、という言葉は飲み込む。これは暗黙の決意だ。彼にとっての金科玉条。
「ラインハルト…」
ほのかな明りに浮かびあがるアンネローゼの顔が微かに歪む。
辛そうな、哀しそうな、そんな憂いの表情。
唾棄すべき者に迄優しい、そして闘いを厭い、彼の身を案じてくれる姉。
判ってくれている。ラインハルトにとって極上の瞬間だった。
「ライン、ハルト…」
うめく様に彼女はもう一度彼の名を呼んだ。
それっきり、言葉が続かない。
「姉上?」
沈黙。
初めてラインハルトは微かな不安を覚えた。
「どうしたのですか?姉上?」
再度問い掛けるが答えはない。
ふと。
「可哀相なラインハルト」
極微かな呟きに妙な違和感を感じて目を凝らす。
ラインハルトの闇に慣れた目に、アンネローゼの手がゆっくりと、いとおしむように、自らの下腹を撫でさするのが見えた。
「でも、許してちょうだいとは言わないわ」
次第に浮かび上がってくる、うっすらとした笑み。
その至福の表情から全てを察する。
背筋が凍り付いた。
「あ…ねうえ…」
からからに渇いた口から、やっとそれだけ絞り出す。
悪魔の表情が魔女の仮面に閃いた。
「ごめんなさい、ラインハルト…貴方はきっとこの子に徒なす。私は母として我が子が危険な目に逢うのを知りながら、静観してはいられない」
呆然と立ち尽くす。
姉のその言葉は、
−真摯な嘆き、葛藤、血を吐く叫び。
一瞬の逆流。
「…こ…売女がぁっ!」
灼熱の奔流がついに彼の身内から迸った。
同時に駆け寄って掴み掛かる。
−いや、掴み掛かろうとして、素早く誰かに羽交い締めにされた。
もう一人この部屋にいた事に−その気配を感じ取れなかった事に内心愕然としながら、優る怒りに任せて激しく抵抗を試みる。だが、腕の主も大概な力だ。ラインハルトとてよく訓練された、しかもかなり優秀な軍人であるにも関わらず、どう足掻いても羽交い締めから抜け出す事が出来ない。
絞めている相手の油断を待とうとラインハルトが抵抗を弱めた時、背後から唐突に声がした。
「お気の毒なラインハルト様」
「まさ……キル…?」
恬淡とした、聞き慣れた声。
けれど、何処か拒絶した、初めて聞く凍てついた声音。
「大事な陛下のお子に徒なす大逆のものを残しておく訳には参りません。」
「キルヒアイス…!お前もか…っ!!」
彼を押さえつけている長身のかつての友は、その背後で誰にも見せた事のない冷たい笑みを、ごく薄く張り付かせていた。
けれどそれはラインハルトには決して見えない。
「大それた望みだったのですよ。大体貴方は不用心すぎる。貴方の不穏な発言など社会秩序維持局はとっくに御見通しだったのです。大した害はないから放っておかれただけ。私が一言漏らしさえすればあとは簡単な事です」
「キルヒアイス。お前も裏切るというのか?この俺を?そして世のくさった貴族どものようにおれを陥れるというのか?」
「いいえ。そんな事は致しません。」
きっぱりとした口調。その口振りには裏切りへの懊脳など一切感じられない。
「貴様もあの売女の味方をすると言うのか…っ!」
憤怒の形相でラインハルト。
だが、キルヒアイスの口調は変わらない。
強いて言うなら、その表情から薄く張付いていた笑みがゆっくりと消えていったのだが、羽交い締めのラインハルトに見える筈も無い。
「失礼な事をおっしゃる」
「ぐうっ」
ぐいっ、と締め上げた腕がねじあがり、痛みに思わずうめく。手首の辺りで何か手鎖のようなモノが掛けられる音がした。
そのまま、横方向に引っ張られて、倒される。
「がっ」
アタマの方でがちゃん、と音がした。
「このままあなたには此処にいてもらいます。私は、身勝手な悪い女になってしまった。貴方に売女と呼ばれても仕方が無い。確かにそうなのだから。けれど、この子は私にとって命よりも大事な宝物。とても大切な、授かりものなのです。だから、」
姉は−いや、かつて姉、と呼んだ筈の女は、哀し気に微笑んだ。
かつては胸に突き刺さるような罪悪感を想起させた、その表情。
だが今、彼の心には何も響かない。只、怒りを倍加させるだけのもの。
見下ろす友の顔も同じ。
表情の無さが彼の心を苛立たせるだけ。
その荒れ狂う炎に、冷水を浴びせ掛けるような女の声がした。
「殺されると判っていてみすみす放っておく訳にはいかない」
なんぴとの否定をも受け付けない、決然とした口調。
確固たる決意表明。
揺るぎ無い表情。
そして、ラインハルトは唐突に理解した。
「姉上…まさか…その子は…」
それには応えず、艶然と微笑むアンネローゼ。
無表情のままのキルヒアイス。
ラインハルトの身内で、全てがつながった。
「キルヒアイス−!」
心の中の、何かが、砕けた−
「折角ですから生かしておいて差し上げます。ですが、脱走でもされては元も子もありませんので…」
キルヒアイスの声が虚ろになった心の中を滑りぬけていく。
「彼がしばらくの良き話相手になって下さると思います。−後はよろしく」
最後の言葉は入ってきた拷問係に掛けた言葉だったが、今の彼にはどうでも良い事であった。
誰かが最後の明りを消し去る。
「さようなら、ラインハルト」
夜ならば、やがて明ける。
夢ならば、やがて覚める。
だが、闇は、灯りが点らなければ、明ける事はない。
灯り。
それはとうに彼が失って久しいもの。
そして、二度と、手に入らない−