その時、心の奥で何かが欠けた。
「おい、王子」
俺は、いやに冷静だった。
「遅くなっちまったが、こいつを渡しておくぜ」
−婆さんが、死んだ。
親の顔なんざ生まれてからこの方見たこともなかった。
いや、ひょっとしたら生まれて間もない頃は飽きる程眺めてたのかも知れない。とにかく物心付く頃には身の回りに親と呼べる類の大人はおろか親戚友達一人いなかった。形見とおぼしきモノと言えば首に掛けられていた銅貨1枚にもならないような安っぽい護符のようなモノが一つ。そんな身よりのない餓鬼が、たった独りで生きていくためにはなりふりなんて構っちゃいられなかったから、何でもやった。それこそ、盗み、かっぱらい、掏摸、果ては女衒の真似事迄、仕事は選ばなかった。選べなかった、と言う方が正解だろう。幸いというべきか、才覚の方には恵まれていてしくじったという記憶は殆ど無い。とにかく、気が付いたときにはいっぱしの悪餓鬼だった訳で、徒党を組むこともなく、自分の身が危うくなれば河岸を変えるべく町を出る、そんな生活が当たり前の子供が良い子に育つ筈もない。十を二つ三つ越える頃には訳知り気取りでそこらを闊歩していたものだった。
そんな時、あの年寄りに、出会ったのだ。
その日、朝から気がのらなかった。こういう時は必ず失敗すると経験で知っていたが、金も底をつき、いい加減腹も減っていて判断が鈍っていたらしい。普段は絶対に受けないようなマユツバ仕事を請け負って、思い切りしくじったのだ。
「追え!」
全く、らしくないドジを踏んだものだ。
追っ手をまこうと死に物狂いで街を抜け出し、走りまくった。最早何処をどう走ったのかも判らないくらい必死に走った。何とか馬鹿な大人共を振り切った時には小さなその街から遠く離れた荒野に入り込んでいた。
「チッ、俺としたことが…」
何も持たずに入ったら、数日と保たない赤い砂塵渦巻く痩せた大地。それを知る土地の者達は街の厄介者が我から死地へと向かったのをしてやったりと見ていたのだ。
馬鹿は、俺だった。
それでもこんな処でのたれ死ぬ気は更々なかったから、意地になって歩いた。虫でも枯れ木でもネズミでも、食えそうなものは皆食った。荒れ地特有の養分−無論水も、だ−をため込む草を見つけては舐めしゃぶり、よく噛んで1滴たりとて無駄にはしなかった。一度ムカデモドキに当たって死ぬ思いをした事を除いて。
どこをどう歩いたかは知らない。荒野をさまよって何日目かに、歩いている道が登りになっている事に気が付いた。どうやら荒野の彼方にちらついていた蜃気楼みたいな赤い山に入り込んだらしい。今来たところを又戻る気はなかったから、そのまま登り続けた。
進むにつれ一本道はだんだんと狭まり、最後には崖際を這うような細さで、人が歩くのには不向きになっていく。身体は敏捷な方なのでなんとか歩いていく事が出来るが一歩間違えばあっさり谷底行きだ。それでも戻る気はなかったし、最早戻ることもままならない場所まで来ていたから、慎重に慎重を重ねてただ進んでいったのだった。
それは餌らしい餌になるモノも見つからず、いい加減危なくなってきた処だった。全く予想もしない所に突然、それはあった。
道の中腹に、一軒のあばら屋が忽然と出現したのだ。
初めは空腹の見せる幻かと思った。だが近づくにつれ、それははっきりとした輪郭になり、手を伸ばせばきちんと感触があって、本物である事をしっかりと主張していた。
「…誰もいないみてぇだな…」
ぐるりと周囲を巡って窓らしいところを覗く。何やら訳の分からないものや本、それにこんな山奥には似つかわしくない位沢山の宝石や金物が山と詰まれていた。
瞬間、空腹を忘れた。
「よし」
幸い、人気はないらしい。もう一度周囲を巡って入れそうな所を探す。
試しに入り口の扉を軽く押してみた。
すぅ…、と扉が動いた。
(いける)
小さく呟いてするり、と中に入る。パチと胸元で小さな音がして、一瞬足を止める。おそるおそる目を下にやると、例の護符もどきがぶらぶらと揺れていた。くそ、こいつが扉の金具に擦れたらしい。
(俺もヤキが回ったな)
心の中で舌打ちすると護符もどきを外して腰帯にしっかりとくくりつけ、改めて室内を伺った。
どうやら家人が動く気配はない。
(よぅし)
足音を立てないように目的の部屋へ入った。途中、腹が減っていたのでこれ幸いと廊下に吊してあった干肉を全部頂戴し、その内の一つをしゃぶりつつ適当に物色する。何でこんな処に金目のものがこんなにあるのか不思議だが、大方ケチな金持ちが財産を隠すためにでも置いているのだろう。
(あの宝石と腕輪くらいで良いか…いや、あの石一つでもそこそこいけるな)
適当な重さでやめるのも知恵の一つだ。いざ逃げる段になって身動きが取れなくなるようではそいつが阿呆なのである。特に俺みたいなガキの場合逃げ足は大きな決め手になるから、あだおろそかにはできない。適当なサイズで足が付き難く、それでいて生活に当分困らない大きさのものをしっかり見極めるのが腕なのだ。
だが、俺は大事なことを怠っていた。物色するのに夢中で背後の目配りを忘れていたのである。
「こぉりゃ!どっから入った!この糞坊主!!」
後頭部に激しい痛みを感じて俺は気を失った。
「こりゃ、起きんかい、この盗人が!」
しわがれた怒鳴り声に目を開けると、目線より高いところにしわくちゃな顔があった。どうやら床に転がされてるようだが、体が金縛りにあったように動かない。目があった途端、勢いよく杖が頭を直撃した。
「何しやがんだくそ婆!」
思わずでかい声で罵るとすかさず、
「くそばばあとはなんじゃ!」
もう一回ぽかり、とやられた。
「…っ痛ぇ…」
目から火花が出た。力加減に容赦がない。だが、此処でひるむと負けなのでぐいと体を反らして殊更に強がってみせる。
「人の頭だと思ってぽかぽか叩きやがって!俺の頭は太鼓じゃねえ!」
「ほ。どうせ空っぽじゃろ」
と、又ぽかんとやって、
「お前の頭じゃ太鼓に悪いわい」
と又々杖で叩いてから、ひゃひゃひゃと歯の抜けた顔で笑いやがった。
「ちっくしょー!離せー!離せったら離せこのヤロー!」
暴れてみたものの効果無し。婆あは益々楽しそうに笑う。
あんまり悔しいので思いつく限りの悪口を並べ立てていたら、続けざまに3回杖ではたいてから、
「口の減らない餓鬼じゃのぉ。此処が何処だかわかっとってその減らず口をたたいとるのか」
にんまりと笑った。
「知るかよ、そんなの!」
本当は少しどきりとしていた。村で小耳に挟んだ話を思い出したからだ。
あの蜃気楼のような赤い山の麓には雪のように真っ白い魔女がいて、時々村の近くに現れては子供をさらって食っている、というのだ。何でも、その時期になると魔女は荒野の向こうからその子供の名前を呼ぶのだという。呼ばれた子供は親の知らない間にその声に応えて荒野へ向かってしまう。誰にもとめられないらしい。
何処にでも転がってる子供だましだと思っていたから、はなっから信じてもいなかったし、事実どの街にも戒めるためにだけ作られた似たような話をいくつも見てきているから今度の話も同じモノだと思っていたのだ。
すかさず婆あが笑った。
「そうじゃよ、わしが、その魔女じゃ」
心を読まれた。すうっと首筋が冷える。だがここで負けては相手の思うツボだ。例え噂が本当でも最後まで諦めるわけにはいかない。
「強がるでない。婆は何でもお見通しじゃ」
ぐりぐりと人の頭を杖で小突き回す。
「あんまりむきになると、食ってしまうぞ?」
にたり、と笑った歯抜け口が血の色に見えて不覚にもおぞけが走ってしまった。
こうなるとさしもの悪ガキもお手上げだ。
仕方がないので戦術を変更することにした。食われてはたまらない。
「…いや、本当は弟子入りしに来たんだ」
「ほーお」
婆あ−いや、婆さんはにやにやと笑っている。
「ほんとだって…あ、いや本当です。その証拠にほら、首、あ、いや腰に魔法のお守りが」
とりあえず護符を引き合いに出す。護符そのものに力はないが古いものだと言われたことはある。こういうものなら相手は魔女だから興味があるだろう。何とか気を反らせてこの金縛りだけでも解いて貰わなければならない。
解いて貰えば後はどうにでも出来る。
「これを見せればいいと言われた」
案の定、興味を持ったらしい。婆さんは腰に下げていた護符を簡単に手にとってためつすがめつしている。
「名のある人の造った凄いものだって聞いて持ってきたんだ」
ここぞとばかりに口から出任せを並べ立てる。心が読めるのならこんな事は付け焼き刃でしかないのだが婆さんは笑いながら口を開いた。
「面白い奴じゃのぅ。どうじゃ、わしの元で修行してみる気はないかえ?」
余りに唐突で事態が飲み込めなかった。泡を食って聞き返すと、泥棒に入った糞餓鬼にいきなり弟子入りのすすめである。申し出の突飛さにこちらが目を白黒させていると、したり顔で婆さんが口を開いた。
「確かにお前には魔法使いの素質がある。此処迄来ただけでも見上げたものだが、何よりわしの結界を乗り越えて住処迄入って来たのはお前だけだからの。どうじゃ、足を洗う良い潮ではないか?」
皺の奥の円らな瞳と目があった。
濡れ濡れと吸い付けられるような光が逡巡する事無くまっすぐに心迄入ってきたようで、柄にもなくあわて、つい引き込まれるようにクビを縦に振ってしまった。
「そうかそうかよしよし」
してやったりという年寄りの顔に、はめられた事に気がついた。
(しまった!婆あ、魅了の魔法を使いやがったな)
このくらいのことなら俺程度の餓鬼でも知っている。が、知っているだけにまんまとしてやられた事が悔しい。かといって今の段階では逃げる事も出来やしない。まして反撃など。
婆さんの歯抜け面を見ながら俺は堅く心に誓ったのだった。
(いつか絶対後悔させてやる!)
赤い山(アル・アタ)の魔女と呼ばれる年寄りにとっ捕まって2年後、俺は婆さんの薦めに従いフェルハーン大神殿に修行に向かう事になった。
あれから毎日脱走しようと試みたのだが、婆さんの結界を突破する事はついに一度とて叶わず、どうして入り込むことが出来たのかは結局判らず仕舞だった。修行だって決して面白いモノではなく、教養であれ魔法であれ言った通りに出来なければ、婆さんは容赦なく人の頭を小突いたり、平気で荒野に置き去りにしたりした。だがこちらはといえば、口以外の反撃の手段を持たなかった。流石に自ら大魔女とほざくだけあって、物理的な攻撃をはねのける事など造作もないらしく、上手く行った試しがないどころか毎度返り討ちにあって玉砕するのが関の山だった。
そんなわけで気にくわないことも随分と多かったのだが、半年もする頃には持ち前の器用さが幸いして簡単に覚えられるようになった。そうなってくると婆さんの教えてくれる事が面白くなってくるから不思議だ。面白くなってくれば反発する言われもないので何時しかやめてしまっていた。
そんなある日、突然、婆さんに呼ばれて言われたのである。
「フェルハーン大神殿…ですか?」
一応敬語を使う。使わないと瘤だらけにされるので仕方ない。
「行きとうないかね?」
「あんな形だけの処に行っても仕方ないんじゃないですか?」
フェルハーンの名は俺みたいな餓鬼でも知っている。この世界で最も大きな力を持っている宗教を奉じている神殿の総元締めだ。だが、大きいのは権力だけでそれ以外はどうしようも無いって話を二年前には聞いている。この二年全く外の情報を得ていないが、余程の事が無い限りそんな短い期間で体質が変わるとも思えないから嘆息して見せたのだ。
「ほっほう…そんなところで学ぶ気はない、か?−強気じゃな」
婆さんはにまにまと笑いながらこちらを見つめている。
「確かに、お前の言うとおりだが…」
珍しくこちらの意見を肯定した。が、含み笑いは変わらない。
「此処より面白いものが見られるかも知れん、とは思わないかの?」
…婆ぁの奴、何か企んでやがるな、と思った途端にニヤリと向こうが笑った。
「…俺が行く事で何か起こるのを期待してますね」
「自分をようくわかっとるじゃあないか」
ひょっひょっひょっと嬉しそうに笑う。
と、婆さんは急に笑いを収めると真摯な表情を浮かべてこちらを見た。
「ま、その為だけにお前をやる訳じゃない」
目的は他にある、という事らしい。
「お前にしか出来ぬ事を成して貰う為に行かせるのじゃ」
「お…俺?」
初耳だったが、心当たりは無くもなかった。大体盗みに入った只の悪ガキを何の意味もなく教育したりはすまい。矯正する為に教育を施すような慈善家とは程遠い年寄りだというのは、俺のように人の顔を伺って生きてきたガキなら半月も相手をしてれば否が応でも判るようになる。目的は何だか知らないが、何か狙いがあってやっているのだろうとは漠然と思っていたから、傍証を得た思いがした。
確信しながら、一抹の寂しさを感じてる自分に軽い驚きがあった。
この年寄りに思ったよりも情が湧いていたらしい。気づいていながら心の何処かで肉親の情のような物を期待していた節がある。その人恋しい部分が言われた事に対して寂しさを覚えたのだろうが、だからといってそれを表面に出すようなへまはしない。
こちらの感傷を知ってか知らずか、婆さんは目を閉じて口を開いた。
「何を成すべきかは行けば否が応でも判る。行けば必ず苦悩する事になるじゃろう」
何かを予言するかのような厳かな口調からは、普段の軽口をたたく陽気なクソ婆ぁの面影は微塵もない。「大魔法使い」のそれであった。些か気圧されつつ婆さんの顔を見つめていると、不意にその体が淡く光った。
「?!」
何処までも白く、柔らかな光が婆さんの体を包み込む。
輪郭がぼやけ、今にも大気にとけ込みそうに見えた。
「婆さん…?」
婆さんの、目が、開いた。今までに見たこともないような優しい目。
「本当は行かせとうない。じゃが、そなたが行かねば…」
切実な言葉に「見えた」。だが、何を言いたいのかはさっぱり判らない。
「許しておくれ…」
何を許せというのか。権力以外の力を失って久しい旧古の地へ向かうのに一体何があるというのだ。何かを学びに行くだけじゃないのか。
哀しいかなこの時の俺にはまだそこ迄の知識は与えられていなかったのだ。
「何が言いたいんだ婆さん、はっきり言ってくれよ」
だが大魔法使いは悲しげに首を振るだけだった。
「何れ判る。何れ…その時そなたはきっとわしを憎むじゃろう…すまぬ」
鈴のような軽やかな音がして首元が光った。と、2年前に見たっきり年寄りの手元にあった筈の、あの、護符が昔通りに首に掛けられていた。
「これは…」
問う間もなく俺は光に包まれた。
最後に見えた年寄りはひどく老け込んだように見えたが、それも一瞬だった。
赤い大地も見慣れた部屋も何もかもが光に覆われ、視界から消えた。
次に視界が開けた時、俺はフェルハーン神殿の神官長の部屋と後に知る事になる部屋に立っていたのだった。
「親父、エル・トパック、約束だ!私に力を貸してくれ!」
義娘の頼みに応じて渾身の力を使う。祈りにも似た呪文を唱える内に、不思議な光景が眼裏(まなうら)に浮かんできて俺は柄にもなく動揺した。
雪だ。あの赤い山に雪が降っている。
此処から見える筈もないあの山に、白い雪が飛んできているのが見えるのだ。
あの時、赤い大地にありながら、何処までも白く、大気に溶け込むように見えた魔女。
そう、あの婆さんのように真っ白な、雪。
そして、俺の心が降らした筈の、涙雪。
それは、地平振り積む金色の雪が見せてくれた、優しい夢に違いなかった。
泡沫の幻である事は誰よりも自分が知っている。
「許して欲しかったのは俺の方さ…」
誰にともなく呟いて、再び祈る。
優しい魂達に、幸いあれ、と−
END.
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