(9.Liars [承前])
名残を惜しむ様に、殊更にゆっくり歩いてきたつもりだったのに、もうすぐ官舎、という処まで来てしまった。
「…惜しむらくは、明日のデートが出来ない、という事ですか」
善行は内心微笑んだ。それだけは、正直に惜しい、と思う。彼女が何処に誘ってくれるのかは、興味深いところだったからだ。だが今では無い物ねだりに過ぎない。
自分は彼女と友を守るために、最善を選んだのだ。
せめてもう一回だけ、逢いたかったが、きっとこのまま、逢えずに帰る事になるだろう。
女子の宿舎は別方向だから、此処にいても会う事はない。そう、思った矢先だった。
「…!」
善行は目を疑った。
官舎の近くに、舞が居た。一瞬目が合ったのだが、逸らされた。
(…テレポートですか)
何か用があって、追ってきたに違いないが、彼には嬉しい機会だった。
最後にもう一度だけ、という願いが叶ったのだ。
素早く歩み寄る。
「…珍しいですね。こんな処で」
「…」
舞は、答えない。善行の方を、見ようともしない。
無表情に、川の方を眺めている。
「…どうしました?」
「…興味がなくなった」
「はい?」
「そなたに興味が無くなった。別れよう」
低く呟いた言葉が、一瞬理解できなかった。
「…え?」
「別れよう、と言っておるのだ。聞こえなかったか?」
思わず舞を見る。
相変わらずの無表情で、興味なさ気にどぶ川を見ている。
「今、何て、言いました?」
「その歳で、耳が遠いのか、貴様?」
嘲るような声。今度は大きな声だ。
「貴様と別れる、と言ったのだ。聞こえたか?」
善行は目を剥いた。
さっきの今である。余りに反応が違いすぎて、事態が飲み込めない。一体彼女に何が起こったのか?
強いて言うなら、付いた嘘がばれた、という事くらいだが、それにしては反応がクールなのが気に掛かる。彼女の性格なら、もっと苛烈に詰ってきてもおかしくない。実は殴り合いの一つも覚悟していた善行なのである。
そこまで考えて、彼女が一度もこちらを見てない事に気が付いた。相変わらず、無表情に川を見ている。一瞬、らしくない、と思ったが、その姿を見ている内に、訳もなく怒りが湧いてきた。こちらを見もせず一方的に告げる、そんな理不尽で不可解な言葉に応える訳にはいかない。
「…お断りします」
低く、答える。
「何故だ。私は興味がなくなったと言っている。貴様につきまとわれても困る」
「何と言われても、私に別れる気はありません。お断りします」
「−貴様、馬鹿か?」
「告白したのはそちらでしょう?一方的に言われても納得できません」
「だから、興味がなくなったと言っている!」
ついに舞は声を荒げた。
「興味のない者に時間を費やす程、私は暇ではない!そういう事だ!」
「何を怒っているんです。私の何が気に入らない」
「判らぬのか!何もかもだ!」
此処に至って、善行も、キレた。
「そう言うことは、一回でもこちらを見てから言って下さい!」
振り払おうとする舞の腕を素早く掴んで、引き寄せた。
「…!」
と。
(血…?!)
丁度善行から見えない側の、舞の唇が、歯の形に切れて、その端から血が流れていた。
「な…にをしてるんです!そんなになるまで…!」
そこまで言った処で、初めて舞と目があった。
彼女の左手と、自分の多目的リングが僅かに接触して、淡い光を放つ。
鳶色の目の奥の惑い迄が、彼の目に飛び込んできた。
唐突に理解した。
目を見なかった処で、もっと怪しむべきだったのだ。そう、これは、
何もかも、知っていて、持ちかけた別れ。
全ては、彼が心を残す事無く旅立てる為の、彼女なりの心遣い。
泣かない彼女の優しさが付いた、下手な嘘。
愛しさが、増した。
「…舞」
善行は、ハンカチを取り出して、そっと舞の口元にあてた。
「痛…っ」
「そんなになるまで噛んで、一体何を我慢してるんですか。折角の美人が台無しです。…良いですか?後で石津さんをつかまえて、必ず手当して貰うんですよ」
舞は大人しく、されるがままになっている。左手の多目的結晶が触れた時点で、全てがばれたと思って観念したようだった。
「…でないと、安心して帰れません」
それはこちらも同じだ。そう思って、善行は初めて帰還を口にした。
「…私は、子供ではない」
小さな、拗ねたような、声。
「子供でないから、心配なんです」
「…」
彼女の手を取って、ハンカチに添えさせ、自分は手を離した。
「子供なら、我慢はしない。無理も、しない。そうでしょう?」
「…」
「でも、そんな貴女だから、私は好きになったのですけどね」
夜目にも鮮やかな位、さぁ…っと舞の顔が赤らんだ。
また、何かを叫びそうになるのを、左手で押しとどめる。
口を大きく動かすのは唇の傷がひろがるもとだ。
「…もう1回だけ、抱きしめて良いですか?」
顔を逸らした。
…少し間が開いて、小さく頷くのが見えた。
顔の傷に触れない様に、そっと、抱く。
「…嘘をついてすみませんでした…」
「…何を謝る?」
善行は微笑った。
その、悪びれない物言いが、嬉しかった。
「ひとつだけ…良いですか」
「…?」
「覚えておいて下さい。私は、貴女が此処に居ると思うから、迷う事無く闘えるのです。貴女を、そして此処の友を守る為なら、幾らでも汚泥にまみれる覚悟が出来る。人を想う、という事は、人を生かす力にもなり得るのです。…私という男は、嘘で固められた人間ですけど、」
ごく微かに、抱く手に力を込めた。
「これだけは、本当のつもりです」
舞が、身じろぎした。
「…嘘で良い」
善行は、目を見開いた。
ハンカチを持たない左手が、彼の胸に、触れる。
力強い言葉が、続く。
「全力を以て絶望に立ち向かう、というのなら、自分に正直に生きよ。闘って勝つ、その為なら、その他の全てに嘘を付いても。それこそが、そなたの真実だ。忠孝」
衝撃が、全身を貫いた。
思わず、彼女の顔を見た。
その迷いのない目が、鮮やかな光を湛えて、真っ直ぐに見返す。
自信に満ちた笑顔。
触れられた部分が、熱い。
この夜の事は、一生、忘れないだろう。
それは、彼にとって、最大級の、賛辞だった。