彼女はもう、何日も、そこに繋がれて居た。
じっとりと湿気て冷たい、ごつごつした石積みの、床。
衣服を剥ぎ取られ、両手両足に黒く太い鉄の輪をはめられて、輪に繋がる鎖を天井に止められたまま。
食事は与えられたが、枷が外される事はないから、犬の様に這い蹲って、皿に盛られた残飯や水を、口だけで喰らわざるを得なかった。
辛うじて枷を外して貰えるのは用足しの時だけで、それも足だけ。
外しに来た兵の監視の元で、備え付けの便器に用を足さねばならない。
ともすると、兵はそのまま彼女の青い髪を引っ付かんで犯す事もある。
屈む度毎自重の掛かった腕は擦れて傷が付き、赤黒く腫れ上がって、ひりひりと彼女を苛み続ける。
何故こんな目にあうのだろう。
何度も自問を繰り返す。
彼女を連行した兵士は彼女も既知の、英雄の名を上げた。
彼の事は個人的にもよく知っていたから、酷い事になるとは夢にも思わなかった。
彼は自分と同じ者だったから、それらが受けてきた事は身にしみて理解している筈だ。
まして彼の下には自分の想い人も付いている。
なら、どうして。
彼の名を語る者が、彼らを陥れる為にやってるのかも知れない。
ああ、私は何てドジなんだろう。
あのひと達に不利になる様な事件を起こすなんて。
早く脱出しなくっちゃ。
でないと許して貰えない。
やっとそこまで思いが至って、自分の頭の悪さを彼女が心中で罵った日、それは唐突に訪れた。
その日、扉を開けたのは、見覚えのある長身だった。
立派な体格と、美しく、長い黒髪。
その美麗な立ち居振るまいと、涼やかな目許は見間違い様も無かった。
「遠坂さん!」
彼女は愛しい男の名を口にした。
「ああ!助けに来て下さったんですね?本当にドジでごめんなさい!私は大丈夫ですから!」
男は駆け寄ろうとして、思い留まる様に、俯く。
「…田辺さん」
やがて、絞り出す様な声が、彼女の名前を呼んだ。
「どうなさったんです?」
「…許して下さい」
苦悶に充ちた、声。
「え?」
そこで彼女は初めて、男の手に、黒光りする大鉈があるのに気が付いた。
かつて見慣れたカトラスよりも丈こそ短いが、鋼の肉は厚く、刃はすらりと鋭い。
幻術を得意とする彼にしては、珍しく明確な鋭器だ。
切ってくれるのはこの鎖だと思い込むには、余りに陰々とした表情に、彼女は−
事態を、
理解した。
−少なくとも、彼が、置かれてる、状況だけは。
「…私を、殺さないと、いけないんですね?」
「田辺さ…ち、違…」
「良いんです。私、」
こんなに辛そうな、想い人の顔を見た事は、無かった。
助けてあげたい。
「遠坂さんの為なら、我慢出来ますから」
死ぬのは本当は嫌だけど。
死にそうだった自分を助けてくれたのは、彼だから。
彼が助かる為なら、出来る事を。
そう思ったら、自然に微笑が浮かんできた。
「仕方ないですよね」
「違うんです、田辺さん!わ、私は…っ」
「…?」
絞り出す様な叫びに半ば驚いて、相手を見つめる。
鉈を握る手が、小刻みに震えていた。
「私は…貴女にそんな事を言って貰える様な男じゃないんです」
「それどころか」
「もっともっと非道な事を」
「貴女にしようとしていた…っ」
「刃向かえば良かった…もっと!」
叫んだ男の目から涙がこぼれ落ちる。
「ですが…あの男は…あれは…私では勝てない…彼すら倒せなかったものを、一介の人間の私が…とても…っ」
彼の手から鉈が落ち、鈍い音を立てて転がった。
「事もあろうにあの男は、貴女をいたぶれ、と言ったのです!この刃物で!」
苦しむ様が見たい、と言ったのだと、両膝を付いて。
「私には…私には出来ない!貴女をそんな酷い目にあわす事など…っ」
もっと抵抗すべきだった、と身を揉んで嘆く。
「でもそうしなければ貴女を殺す、と言ったのです…一回やれば下げ渡す、とも」
最早、その顔は泣き笑いで。
「ああ…」
彼女は、慈母の様な笑みを浮かべた。
この哀れで可哀想な、己の想い人を救う術は、一つしかない、と思ったから。
踏み出せる術は幾らでもあったけれど、それは全て封じて。
何、自分はブルーヘクサだ。
こんな事には、慣れて居る。
「…彼は、どうするかな」
モニタを見下ろす青い眼差しが、酷薄な色を浮かべた。
「−従うでしょう。彼は、断れない」
背後の影に潜む長身が、答える。
ふわ、と青い髪を揺らして、速水が振り返った。
「君ならどうする?」
「答える迄も無い事ですね」
即答する善行の眼鏡は、モニタの光を反射して、表情が見えない。
ふふ、と笑って速水は善行の側に寄る。
「訊く迄も無かったね」
そのまま脇を通り過ぎて、出入口の側に歩み寄る。
「君は裏切らないからな−アレと違って」
扉の側に置かれた、人体の剥製の一体に、近付いて。
「これを作るには、手間が掛かったからね。拾い集めてくれた君には感謝してるよ」
速水は、接ぎ目を軽くなぞってから、長く赤い髪を弄ぶ。
「どういたしまして」
善行の返事に表情はない。
「言っとくけど、君や彼では作らないからね」
髪の匂いをす、と嗅ぐ様にして。
「彼にはそこ迄思い入れが無いし、君では鑑賞に値しない」
「…」
くつくつと小さく笑ってから、速水はそのまま善行の前に近付いて、後ろ手に組んだその片手を取る。
そして、その手を自分の側に持ってきて、ぺろり、と舐めた。
善行は一切抗わない。完全に為すがままで、立って居る。
「君は、僕が骨の髄迄存分に食らう…君は僕の血肉に、なるんだ」
絡みつく何かが凝る、囀り。
速水の手が、善行の身体を抱き込む様にして、眼鏡の下を覗き込む。
「それが舞を失わせた君の、責任だ」
光で見えなかったその下の眼差しは、完全に無表情のまま、速水を見ている。
「仰せのままに、厚志」
しばらく見つめあっていたが、不意に、速水が笑った。
「…やっぱり君は落ちないね。全てを失ってもその顔や心は崩れる事が無い」
それを受けるように、善行も静かな笑みを浮かべる。
「そんな事はありませんよ」
「−その笑顔もコントロールされたものだろ?」
間近から立ち上る、粘り付く様な、感情。
「君のその顔が気に入らないと、今此処で切れても良いんだよ、僕は」
「御随意に」
静かな応えの向こうに、鮮烈な悲鳴が聞こえた。
「−始まったな」
速水の顔に冷酷な光が掠める。
「ブルーヘクサは実験慣れしてる。この程度の事では悲鳴を上げない筈だが」
「…案外その辺りに彼の幸せがあると、読んだのかも知れませんね」
意外そうな表情を浮かべて、速水は言葉の主を見た。
「面白い事を言うね。それじゃあ彼は変態じゃないか」
当の善行は、無表情のまま、淡々と言葉を返す。
「ただの推測ですよ。彼女が苦しまねば彼は大変な事になる。ならば、という判断を彼女の幸福因子が下したという事です。変則的な幸福、という訳ですね」
「じゃあそんな事を此処で冷静に分析している君は何だい?鬼畜な上官という訳か?」
「さあ。既にヒトではないと思いますがね」
速水は冷笑を浮かべた。
「さしずめ彼に『生命』のプレゼント、という訳か。健気な事だ」
ごとん。
これで、なんぼんおとされましたっけ?
ひとってそんなにてあしないですよね。
もう、のどがひりひりしてます。
ぎち。
はだにさわるとつめたいけど、はいってくると、あついんですよね。
しびれて、じんじんするんですよ。
ごり、きしし。
なんで、あたまのなかで、おとがするんですか。
もっとはなれたところでしてるのに。
ちゃぷん。
だんだん、ひえてきちゃってます。
…ちょっと、まずいかも?
あ。
はいってるはいってるはいってる
つぷつぷつぷつぷ
いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい
たたたたたたたたー…すけてー…えーえーえーえー
「は」
…き、きもち…い、いーか…もー…………
「アアアアアアアアアアア!!!!!」
「許して下さい…許して…真紀さん…っ!」
−終劇−